『北の零年』20点(100点満点中)
セカチューとデビルマンの悪いところを受け継いでいる
明治初期に北海道を開拓した武士たちの姿を描く時代劇。豪華キャストをそろえ、北海道長期ロケを敢行した製作費15億円の大作だ。
明治4年、淡路島で代々暮らす稲田家とその家臣たちは、藩とのトラブルから未開の地・北海道への移住を命ぜられる。先遣隊の若きリーダー(渡辺謙)と妻(吉永小百合)にとっては希望に満ちた新生活であったが、彼らの前には想像を絶する運命が待ち構えていた。
東映が社運をかけたという超大作であるが、商売上はともかく、同社の映画作りにおける実力低下は否めないようだ。『北の零年』は吉永小百合、渡辺謙、豊川悦司といった主演級が何名も揃っているだけに、彼らの魅力でなんとか持ちこたえてはいるものの、その脚本、演出のマイナスが誰の目にも明らかな失敗作である。
監督は「世界の中心で、愛をさけぶ」の特大ヒットが記憶に新しい行定勲。若々しい感性の映像作りに定評があるが今回は不発。北海道の雄大な景色に建てたオープンセットにはさすがに安っぽさはないものの、ほかに特筆すべき映像面での要素があるわけではない。
むしろ、セカチューでも気になった「感動の押し売り」的な演出がどうしても鼻につく。日本の時代劇にはもっと、しっとり淡々とした感動がほしいものだが、仰々しい音楽が流れ、さあここで泣いてください!と言わんばかりのやり方には辟易する。
ストーリーと台詞、すなわち脚本にも大いに問題がある。こちらは“あの”「デビルマン」の脚本を担当した那須真知子。名台詞「ハッピーバースデー、デビルマン!」が記憶に新しい。……というか脳内から消えなくてたいへん困っている。誰か助けてほしい。
「北の零年」の話に戻るが、たとえば時代遅れになりつつある侍たちが、武士の心で悲壮感漂う対決に挑む場面など、個々で見るとそれなりに心を揺さぶられる場面はある。しかし、肝心なところで飛び出す説明的でハズカシイ台詞のいくつかがそれを台無しにする。
登場人物らの奇妙な行動も目に余る。ネタバレになるといけないので深くは突っ込めないが、渡辺謙が演じる役などはその最たるものといえる。吹雪の中を軽装で歩き出す吉永小百合親子の行動も理解不能だ。
役者の話がでたのでもうひとつ苦言を呈すると、そもそも渡辺と吉永が夫婦という設定はいかがなものか。この両俳優は確か15歳ほど実年齢が離れているはずだが、顔つきが渡辺は若々しく、吉永は(往年のイメージと見た目のギャップのせいで)ふけてみえるため余計に違和感が残る。「東京タワー」じゃあるまいし、あまりに離れすぎてはいないか。だから吉永に濃い若作りメイクをする羽目になり、よけい不自然になってしまう。
さらに、この二人の一人娘を大後寿々花という子役が演じているのだが、これがまた実に幼顔で、せいぜい10歳程度にしかみえない。この家族構成はどう見ても変ではないか。しかもだ、劇中で数年ほど一気に時代が飛ぶ場面があるが、そこからはこの娘役が、18歳の石原さとみにチェンジする。この子がまたなんとも大人っぽい。わずか数年でいくつ年取ってるんだよオマエ、と突っ込みたくなる。このあたりに、作品の完成度最優先でキャスティングを行えない、製作側の悲しい事情が垣間見える。
チグハグなキャラクター作りとセンスの悪い台詞、メロドラマ調のおおげさな演出。要するにこの映画は、「世界の中心で、愛をさけぶ」と「デビルマン」のよくない点が、デーモンと不動明よろしく、そのまま融合してしまったのだ。ハッピーバースデー、北のゼロネン。
「北の零年」を見ると、今の東映には大作を成立させるだけの力が無いのだろうかと心配になる。15億円もかけてかように凡庸なものを作ってしまうというのは、相当根深い問題といえるのではないだろうか。