『マレフィセント2』65点(100点満点中)
監督:ヨアヒム・ローニング 出演:アンジェリーナ・ジョリー エル・ファニング

≪完全に政治映画≫

元ネタというべき『眠れる森の美女』(1959)から60年ということで、そのスピンオフ実写版2作目『マレフィセント2』がこうして作られたわけだが、いざ見てみるとそれだけが理由ではなかったことがよくわかる。本作は、とかく政治的テーマをこめたがるディズニー映画の典型例というべき作品であった。

オーロラ姫(エル・ファニング)が、フィリップ王子(ハリス・ディキンソン)からプロポーズをされた。彼女からその報告を受けた育ての親マレフィセント(アンジェリーナ・ジョリー)は、自らの過去を思い出し反対するが彼女は受けるという。しかも彼の両親と会うため、彼らのお城についてきてほしいとまで頼む。イングリス王妃(ミシェル・ファイファー)はじめマレフィセントを快く思わぬ空気に満ちたその居城へ、オーロラのためだけに向かう彼女だが……。

改心したとはいえ、いまだ世間の多くはマレフィセントを恐れ、信用していない。そこで彼女に勝るとも劣らぬ悪女な王妃は一計を案じ、オーロラとマレフィセントの絆を引き裂く策略を巡らせる。

王妃を演じるミシェル・ファイファーはアンジェリーナ・ジョリーに匹敵する存在感がある女優だから、女同士の熾烈な戦いは迫力満点。不敵な笑みを浮かべるミシェルさんの貫録など、大いに見ごたえがある。

一方オーロラはプリンセスだというのに、もはや完全に脇役扱い。前作の批評で私はこれを「ディズニーの変化球シリーズ」と断じたが、こうした点からもそれがよくわかるだろう。

また、同じく前作の時、アンジーを「このキャラクターに対しては、並々ならぬ思い入れがあったであろう」と評したわけだが、今回彼女はそのようなことをインタビューで語っており、またも当サイトの解釈の正しさが証明された形。

映画界のゴーマニズム宣言といわれる私とはいえ、なぜそれを今さらここに書くかといえば、じつはこのパート2は前作以上に政治的な映画で、しかもアンジーの価値観と同じ、もしくはそれが強く反映されているものだからだ。

というと当サイトの読者は「ああ、あれね」と察すると思うがその通り。2019年のハリウッドの大潮流「分断と和解」である。

ムーア国という、化け物もとい妖精たちが住む国と、フィリップ王子たちのお城がある人間の国は、一本の川で「分断」されている。こども向けディズニー映画なのでちゃんと「絵」で説明してくれるから、だれにとってもテーマがわかりやすい。

その架け橋となるのは、大ヒット作「アクアマン」では敵対する両種族のハーフたるアクアマンだったが、本作では人間ながらムーア国の姫となったオーロラである。彼女の活躍により、両首脳は会談し、和解まであと一歩のところまで迫る。

だが、人間側王妃の策略でそれは物別れに終わる。非常にわかりやすい悪役の構図である。

そんな話とくれば、2019年のハリウッド映画ならその先はもう完全に決まっている。100%想像通りの展開、すなわち「分断から和解」にいたるというわけだ。もはやネタバレにすらなりゃしない。

「和解」のほうも非常にわかりやすい。人間の象徴たる「お城」と、ムーア国の象徴たる「植物=ツタ」が最後どうなるか、だれが見ても一目でわかる仕組みである。

さらにそのバルコニーで、初夜明けの心地よい疲労感を顔に残したカップルの前にやってきたマレフィセントが何を言うか。

健全きわまるディズニー映画ともあろうものが、なぜわざわざこんなにエロい含みをもたせたシーンを、あからさまな演出でやっているのか。違和感を持つ人も少なくあるまい。

だが、当サイトを読んでいる人ならこのシーンがいかにこの映画に撮って大事なものか、きっとわかるはずだ。極端な話、この場面のこの会話を見せるためにこそ、この映画はあるのだ。

マレフィセントがここであからさまに二人に小作り推奨をしているのは、お城とツタの関係と同じ、それが「和解=融合」の象徴だからである。「分断をやめ、仲良く融合せよ」というわけだ。

ここで観客は気づかねばならない。作中、悪魔の象徴たる動物に姿を変えられてしまうアレは、いったい誰を暗喩していたのかを。そして、復活の象徴たる不死鳥が登場する理由も。

なんとも政治的でウンザリしてしまうが、それを感動の衣に包んで送りだすんだから始末に負えない。

こういう映画を見たアメリカ人、それもグレタちゃんみたいな純朴無垢な女の子がいったいどんな風に育つのか、想像すると末恐ろしくなってくる。

こうした政治的主張を描くために本作は、ディズニー映画史上まれにみる残虐な戦争シーンを配置する。かわいらしい妖精たちの命がズバズバと絶たれる。作り手たちが、表現をやわらかくすればいいと思っているところがまた怖い。死は死なのだ。

そして、そんな殺し合いをしていた連中が、かけごえ一つで戦闘をやめて仲直り。

まさに、ディズニークオリティきわまれりだが、実写で見るとさすがにご都合主義が鼻につく。

もっともそれは、彼らだって百も承知で、それでもやらねばならなかったのだ。なぜなら、これこそが選挙も間近な2019年にこの映画企画にゴーを出した理由の一つに違いないのだから。

「人生はどこに生まれたかで決まるのではない。誰と愛し合ったかで決まるのだ」──そんな感動的なセリフに人は酔う。そりゃそうだ、これはまさに反論の余地のないポリコレである。

米国でも中国でも、どこに生まれたって喧嘩なんてしちゃだめですよと、チャイナマネーがたくさん入ったハリウッドが言っている。

バルコニーから飛び立つマレフィセントのドレスは、もちろん「和解と融合」を意図していることが誰でも一目でわかるデザインとなっている。

というわけで、ところどころ意味不明な『マレフィセント2』も、私が常日頃から言っている「分断と和解」のキーを使えば完璧に理解できることがお分かりだろう。

これはまさに、時代が「超映画批評」を追いかけていると言わざるを得ない。そんな、お約束の自画自賛をもって当記事を終える。



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