『アルキメデスの大戦』60点(100点満点中)
監督:山崎貴 出演:菅田将暉 舘ひろし

≪映像で語れ≫

国威発揚のため五輪開催を掲げ、その象徴たるオリンピックスタジアムを莫大な国費を投入して建設する。

建築費は当初予定を無視するがごとく膨れ上がり、それでも無理やり完成させたが、出来たものにはエアコンもなく、聖火の置場もない。汎用スタジアムとしては巨大すぎ、再利用も困難な負の遺産でした……。

この新国立競技場問題(※設計段階のゴタゴタ)に着想を得て、戦時中の戦艦大和建造を大胆な解釈で描き出した三田紀房の漫画『アルキメデスの大戦』。このユニークな戦争ドラマを、日本屈指のヒットメーカー山崎貴監督(『ALWAYS』シリーズや『永遠の0』など)が実写化したのが本作である。

昭和8年、第2次世界大戦開戦前の日本では、海軍の新造艦計画が持ち上がっていた。海軍少将の山本五十六(舘ひろし)らは航空母艦を推すが、軍上層部の守旧派は時代遅れの巨大戦艦を提案していた。そこで山本は、天才数学者・櫂直(菅田将暉)を軍に招き、彼らが提案する戦艦の安すぎる見積もりのインチキを暴かせようとする。だが計算に必要な書類や図面はことごとく彼らの手によって隠され、櫂の調査はすぐさま八方塞がりとなるのだった。

戦時中と現代と。こうして比較してみると、本当に日本てのは何も変わっていないなと改めて思わされる。とくに、既得権益にしがみついている連中が、周囲を巻き込んで国全体が破滅するという、最悪の部分が何も変わっていない。良くも悪くも国体を維持したまま敗戦をやり過ごしたことが原因だろうが、自浄能力がないというのはたいへん情けないことである。

さて、そんなわけで本作は非常に地味な、既得権益ヤローどものインチキ見積もりを暴くという話なので、基本的に戦争映画の華というべきドンパチはない。

……と思ったら、そこはさすがVFXの専門家、山崎貴監督である。原作にはない、大和轟沈のシークエンスをオープニングに持ってきて、ちゃんと映画らしいスペクタクルを前菜代わりに召し上がれ、ときた。いうまでもなく、彼が作れば見た目の迫力は他の戦争大作と大差なし。このサービス精神は評価したい。

こうして観客の注目を集めたうえで、さあこの大和とやらは無駄だったのか、それとも何か意味があったのか。と物語の本筋に引き込む。映画文法としては王道である。

さて、この原作の一番痛快なところは、過去を描きながらテーマが非常に現代的なところである。

偉い奴らが八百長会議を開催し、国民のカネを平気で無駄遣いする箱モノ建造を決める。しかもそのコンペは接待と事前の談合と籠絡で決まっており、見積もりはインチキで実際はくそ高い。いかにして、彼らは血税をしゃぶりつくすのか。

まさに加計学園問題の映画化である。あるいは原作通り、五輪競技場でもいいが、いずれにしても現在進行中のホットな社会問題と構図を一にする、気づいた人にだけ伝わる知的でアイロニカルなドラマである。

東宝は、大手の中では最もマーケティングを重視する会社として知られるが、かつては安倍政権べったり百田尚樹原作もので荒稼ぎした彼らが、このように政権批判とみられかねないテーマを内包する作品を、夏の勝負作として持ってきたことには大いに注目すべきだと私は考えている。

日本における潮目の変化は、こういうところにもすでに表れているのである。アンテナの鋭い当サイトなどはすぐにそれを察知し皆様に無料でお伝えする。今後のご愛読をすすめる次第である。

と、さりげなく自薦をおりまぜたところで作品批評だが、山崎監督は映画化にあたっていくつもの工夫を行っている。

たとえば戦艦長門に櫂たちが乗り込み、参考のため設計図面を隠し見るシーン。原作とは異なり、ばれるか否か、スリリングな見せ場となっている。このあたりは、原作要素にエンタメを加えた小変更といえ、オープニングの轟沈シーンと同じく成功している。

さらに監督が大胆に手を入れたのが、映画版には原作にない結末を加えたこと。というか、原作は終わっていないのでそれは当然なのだが、これが非常に見事な終わり方となっている。

同調圧力に弱く、やめ時を知らない日本人の愚かさを痛感させるこの場面を見ると、決して示唆されたわけではないのに、現在のフラフラした日韓外交や日米関係を思い出させ、不安にさせられる。

「映画は疑問を投げかけるためのツール」と言ったのはレバノンの映画監督ナディーン・ラバキーだが、まさにこの映画の結末はそれを踏襲する。

ただ、これほど素晴らしい結末を考え出してくれたというのに、その演出がうまくいっていないのは残念きわまりない。

具体的にはここで平山忠道役の田中泯が、大和の巨大な模型のまわりをウロウロしながら大事な話をしゃべり続ける。これがいけない。田中泯は上手いけれど、この衝撃のオチは到底、セリフだけで納得できるようなものではない。櫂ほどの男があんな反応をするのも、どうにもご都合主義に見えてしまう。

私がここで残念に思うのは、山崎監督は映像派なのに、自分が持つそのものすごい映像の力の使い方がいまいちわかっていない点である。

この場面などは特にそうで、ここでこそ持ち前の映像の力で語るべきだったのである。なのになぜ言葉になど頼ってグダグダと説明的セリフを言わせてしまったのか。

じつはこの場面と対になる伏線的シーンがある。

それは櫂がアメリカ行きの船に乗ってからふと振り返った時、ヒロインを見る場面。ここでは、彼女の背後にある雑踏の景色が、見る見るうちに焼け野原にかわる演出がなされている。山崎監督らしい、CGを効果的につかった演出。一度は日本を捨てた櫂が、その未来に敗戦と荒廃をみて、考えを改める重要な場面である。

ここを山崎監督は、文字通り映像だけで"語った"。すばらしい効果で、山崎監督の真骨頂だと内心拍手した。私がラストシーンでやるべきだと言っているのは、まさにコレだ。

戦争映画は、戦争を描くもの。つまり、究極的には人間の業を描くものだ。業をどう映像で語るか、それが問われているわけである。だからこそ難しい。この映画も、戦争映画なのにどこか軽く見えるのは、このラストシーンに象徴されるようにその点が不足しているのが原因である。

同じ監督の戦争映画『永遠の0』(13年)は、それでも主演の岡田准一の力が圧倒的だったからなんとか持った。だが本作の菅田将暉には、まだそこまでの力はない。

原作キャラのような天才性を感じさせないし、演技も言葉も声質もどこか軽く、キャラクターに合っていない。少なくとも戦争映画にはマッチしていないように思える。

とはいえ、本作で山崎監督は原作からのピックアップ能力が高い事については改めて証明した。例えば彼は、キャラクターの省略はそれほど問題がない事をよくわかっている。むしろストーリーやディテールの魅力を落としては駄目なことも、だ。

それでも映像で語るという、自分の長所を最大限に生かすやり方については、まだまだ伸びしろがあるように思える。その意味では、次回作が気になる監督の一人であることに違いはない。



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