「アンダー・ユア・ベッド」60点(100点満点中)
監督:安里麻里 出演:高良健吾 西川可奈子

≪好きな子のベッドの下に潜り込むキモ男と思いきや…≫

好きな女の子の部屋に侵入して、ベッドの下から彼女の日常生活を覗く。男なら誰しも中学生時代あたりに妄想したことがありそうなシチュエーションだが、大石圭の同名小説はそのエロ妄想を打ち砕く感動作になっていて、かつて読んだときは度肝を抜かれたものだ。本作は、その初の実写映画化になる。

友人もおらず、学校でも家でも、つまり社会から無用なものとして無視され続けてきた三井直人(高良健吾)。彼はある日、大学時代の同級生、千尋(西川可奈子)のやつれきった姿を街で見かける。大学時代の千尋は朗らかで皆にやさしく、直人が人生でただ一度だけ名前を呼ばれ、一緒にコーヒーを飲んだ女性だった。鮮やかな、そして生涯ただ一つの幸福の記憶がよみがえった直人は、ただ事でない千尋の激変の理由を探るため、彼女の生活を監視し始める。

実を言うと、関係者試写会に出向いた時点での私は、これが大石圭の小説の映画化だと知らなかった。映画が始まり、冒頭にマンデリンのコーヒー(この銘柄が物語の中で重要な役割を果たす)が出てきたその時に、まさに直人にとっての千尋のように、鮮やかに思い出したのである。この原作は、ミステリ好きの私にとって、かなりのお気に入り作品であった。

その意味でいうと、ヒロインの千尋を西川可奈子が演じているのは、まさにこれ以上ない完璧な配役といえる。「私は絶対許さない」(17年)で、レイプされる中学生を思い切りのいい演技と役作りで演じた彼女を、私は高く評価していた。本作でも、一人の人物の中での激しいギャップを演じ分けられる持ち味をいかんなく発揮し、この難しい人物に息を吹き込んだ。

千尋という役は、直人が一生をかけて、命を懸けてまでたった一つの思い出(コーヒーを飲んだ)を守ろうとするに値する魅力を感じさせなければならない。西川可奈子にはその素質と技量があったということだ。

あれほどの笑顔を見せてくれた女性が、あんなにもひどい状況に陥ったならば、直人のような男が人としての道を踏み外し、恐るべき行動をとる説得力があるというものだ。

なお彼女は、先述の作品同様、驚異の脱ぎっぷりの良さと均整の取れたボディを本作でも見せてくれる。それだけでも劇場に足を運ぶ原動力になりうる美しさだ。さぞ、維持するために努力していることだろう。

さて、そんな千尋に対し、この持たざる者、社会のド底辺でいきる虫けらのような男が何をしたか。

なんと、彼女を喜ばせるため匿名で花を送り続け、彼女の家を見張れる場所に自宅兼職場を準備し、思い出の中の若き彼女を再現した自作マネキンを自室に飾り、マンデリンをのみながら望遠レンズで千尋の部屋を監視し始めたのである。やがて部屋にも侵入して盗聴器を仕掛け、彼女の代わりに水槽の掃除までやってのける。

はっきりいって変態である。

それどころか、これではもはやキング・オブ・ストーカー。直人は頭がよく、節度を知っており妙に慎重なところがあるから、危ない橋を渡りながらもそうそうドジは踏まない。その巧みさが、なぜか痛快感さえ感じさせるから面白い。美人を覗く禁断の喜びとでもいうのか、男の観客にとってはこれだけで目が離せないだろう。

だが、夫に全裸にされた千尋が何をされるか、直人とともに観客が目にした時、この物語は恐ろしい方向に転がってゆく。

そして私たちは知るのである。これは、虫けらのように扱われ生きてきた名もなき男による、命がけの恩返しの物語だったのだと。

キモいストーカーの物語のはずが、驚天動地の感動作に転調する。共感度100の泣ける純愛ストーリー。原作を一言でいうと、そういうことになる。

この映画版で残念なのは、男の読者にとって一番大事な、この感動作の部分が弱いことである。

男というのは、誰しも一度や二度は意中の女性を振り向かせることができなかった、つまり恋愛における苦い経験というものを持っている。それは、私のようにパンツをはく暇がないほどモテる人間であっても同じである。

直人は極端なキモデブブサキャラではあるが、その意味では全男の感情移入先になりうる。というか、そうでなくてはならない。外見はダメだが、人間的魅力を兼ね備えていなくてはならない。

ところがこの映画で直人を演じるのは高良健吾である。これはいけない。

もちろん、高良健吾の力が足りないという意味でない。ではなぜ彼ではダメなのか、もうみなさんにもお分かりだろう。

高良健吾のようなイケメンでは、社会のど底辺で誰にも相手にされないブ男の役は、物理的に不可能なのである。たしかに彼は必死でブサメンを演じていたし、スタンガンの葛藤シーンなどは見事な芝居を見せていた。だが、顔がいいのはどうにもならない。

どうしても彼の演技力を生かしたいのであれば、最低限のブサイク特殊メイクくらいは施すべきであった。体型も、もっとだらしなく、ケンカに弱そうでなくてはならない。

愛するオンナを守りたいけれど力がない、かといって彼女を夫から奪い取る魅力ももたない。だから、こんな不器用なやり方でしか千尋に近づけなかった。そんな直人の悲しいまでの境遇に、心を引き裂かれるような思いで観客が引き込まれる形にならないといけなかった。

おそらくこれは、女性監督の限界なのでないかと思う。

あの小説になぜ男性読者が引き込まれるのか。女性には頭では理解できても、生理的には難しいのではないか。そういうタイプの、あれは小説である。

原作が描いたのは、全男にとって隠したい気持ち、本音である。それは何かというと、いとおしくも身勝手な"女性の理想化"。女性崇拝のような感情といってもいい。ほとんど宗教みたいなものだ。それにすがって、ある種の男たちは生き延びている。そんな弱い男が主人公ということだ。

通常、この思いが女性に理解されることはほとんどないが、この話では夫のDVなど、様々な偶然の産物が積み重なって、本来ありえないことが起きる。そこが物語のキモなのだ。

大石圭にはそれを可能とする筆力があった。彼は底辺の人間の持つ魅力を描くのがとてもうまい小説家だ。究極の妄想物語でありながら、ぎりぎり女性にもアリかな、と思わせるバランス感覚が絶妙であった。

映画にもそのレベルの人間描写力が必要なのだが、女性監督には荷が重すぎるように感じる。

だがそれでも安里麻里監督はよくやったほうだ。モノローグだらけの不器用な構成ながら、原作に忠実に話を進めたのは身の程を知るというか、謙虚で好感が持てる。もしこれを、女性らしい新解釈で実写化されていたらと思うとぞっとする。限界と困難を自覚しつつも最善を尽くした、そんな印象である。

そもそも高良健吾をキャスティングしたのも、監督の意図とは限るまい。むしろこれがさらなる演出上の困難を生んだのだから、ほとんど気の毒ですらある。

そのぶん、西川可奈子演じるヒロイン側は文句なしなのだから贅沢は言えないのだが、男描写の完成度をあげた版も見てみたいというのも、わがままとは自覚しつつも偽らざる本音である。



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