「トイ・ストーリー4」90点(100点満点中)
監督:ジョシュ・クーリー 声の出演:トム・ハンクス ティム・アレン

≪リブートを拒否した現代的な脚本≫

シリーズ完結編にしてピクサーアニメ史上最高傑作といっても差支えないほどの名作「トイ・ストーリー3」が公開されたとき、私はこの映画には、リーマン・ショック後のアメリカの傷ついた労働者に向けたメッセージが込められているとこのサイトで解説した。そういうことを言い出したのは私が最初だった。あれから9年、あの時の解釈は間違っていなかったなと、この最新作をみて改めて確信することになった。

※このあとの文章には前作までのネタバレが含まれますので、未鑑賞の方は3作目までを鑑賞した後にお読みください

ボニーのもとで新しいおもちゃ人生を送り始めたウッディ(声:トム・ハンクス)たちの前に、新しい仲間がやってきた。ボニーが幼稚園で、自分で作ったフォーキーだ。使い捨てフォークに針金モールをまいただけの素朴なおもちゃだが、ボニーの思い入れは格別。しかしフォーキー本人は自分をおもちゃでなく"ゴミ"だと思い込んでおり、ついに逃亡してしまう。ボニーを悲しませたくないウッディは、とっさに後を追いかけるが、それは彼らの運命を変えてしまう冒険の始まりだった。

「3」の公開翌年くらいにトム・ハンクスが「4」の製作を示唆してニュースになったが、いよいよそれが形になり公開されることになった。あのときは、きっとまたボニーのもとで楽しい物語が続くのだろうと大勢が想像していたと思うが、さすがはピクサー。そんな蛇足的繰り返し、すなわちリブートの愚に陥ることなく、見事に「3」の続編にふさわしい、必然性の高い新テーマをぶち込んできた。

それを読み解くためには、本作でウッディが置かれた立場の、これまでとの違いに注目すべきだろう。なんと、あれほど持ち主から愛されてきたウッディが、ショッキングなことに今回のボニーからは見向きもされていない。

ここで私たち観客の多くは、きっと思い出すだろう。「3」のラストシークエンスでアンディが、入っているはずのない箱の中にウッディをみつけたとき、ボニーから遠ざけるようにかばった動きを。アンディにとってウッディは明らかに他のおもちゃとは別格の存在だった。だがボニーにとってウッディは、まったくもって特別なものではないわけだ。これはなかなかのショックである。この厳しい現実が、本作が暗喩するテーマの重要なキーとなる。

アンディと築き上げた強い絆は、ウッディにとってかけがえのない思い出として、ボニーと暮らすようになった今でもしっかりと心に刻み込まれている。彼があるときアンディの名前を思わず口に出してしまうシーンは、涙なしには見られない。そんな瞬間がこの映画には何度も出てくる。

それでもウッディは、アンディといたころと全く変わらぬ持ち主への無償の愛を持ち続け、ボニーに注ぎ続けている。自分ではなくフォーキーを愛していると知りながら、くさることなく、寂しく思うこともなく、それが自分の役目だと知っているから、フォーキー奪還に全力を注ぐ。うぬぼれず、謙虚に、愚直に、強烈な責任感と愛情でもって奮闘する今回のウッディへの共感力は、シリーズ史上まちがいなく最高だろう。

誰かの所有するおもちゃであることを"生業"として前作で選んだウッディは、まさにその責任を、迷うことなく全力で果たしつづけているのである。

「3」で、引退でなく次なる職場を選んだウッディは、そこが今までの「職場」よりずっとキツく、見返りの少ないところでありながら、仕事の質を落とすことなく立派に勤め上げようと努力している。

私が「トイストーリー」は母でなく父親が行くべきだといっている理由が、まさにこれなのだ。わが子を映画館に連れてきたお父さんの多くは、この映画が子供向けの体裁を保ちながら、そのじつ自分たちに向けて作られたものだと必ず気づく仕組みになっている。

さらに言ってしまえば、『トイ・ストーリー4』とは、勤め人に必ず訪れる最後の時を、前作とは違う形で描いた物語である。あえてこれ以上は言わないが、働く男性がこれを見れば、それが何を暗喩しているかは必ずわかる。その、ある種の理想形を高らかにうたい上げるストーリーは、やがてくるその時を前に不安を抱える労働者たちをあたたかく、力強く励ますものだ。

本作品は、終身雇用制が完全に崩壊し、生業を生涯まっとうできなくなった時代ならではの「トイストーリー」であり、そんな時代においても人々に明るい未来を見せようと試みたピクサーの意欲作である。

終盤、ウッディがバズに「彼女は大丈夫だろうか」と問う場面がある。

バズはその「彼女」が、ボーを指していない事にすぐに気付く。バズがウッディにとって、長きにわたり友情を育んできた、本物の理解者だとわかる名場面だ。そのときのバズの表情、隠し切れない驚きと、それでもすぐにウッディの意思を肯定した決断、そのわずかな時間の逡巡を表現したコンピュータアニメの実力にはうならされる。絵柄こそ一作目に合わせているが、表現力は段違いの進化を遂げている。

よくぞあの完璧な「3」にこれほどの続編を作り上げたものだ。それだけでも称賛に値しよう。

くれぐれも、お母さんよりもお父さん(いやママを連れて行ってももちろんいいのだが)こそが、愛する子供と手をつなぎ、見に行くべき傑作の誕生である。



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