「太陽の蓋」65点(100点満点中)
監督:佐藤太 出演:北村有起哉 袴田吉彦

強烈なる実名実録映画

「太陽の蓋」の試写会をみたある映画業界関係者はこういったそうだ。いつの間にこれだけの規模の、原発タブーに触れた映画を完成させていたんだ、と。

2011年3月11日、東日本大震災に伴う福島第一原発で深刻なメルトダウン事故が発生した。このままでは日本が壊滅する恐れまであった。官邸の菅直人(三田村邦彦)は枝野幹事長(菅原大吉)、内閣官房副長官・福山哲郎(神尾佑)らと、未曽有の危機対応に追われることになるが、肝心の電力会社や原子力委員会は、この期に及んでも隠蔽に走ったり、ひたすら狼狽する有様であった。

冒頭の関係者の気持ちはよくわかる。映画作りは多数の企業が関わるため、原発タブーは非常に強い。とくにメジャーな映画会社では、反原発のテーマは簡単には扱えない。まして福島原発事故の関係者を実名で登場させる劇映画など、危なすぎてまず企画が通るまい。

実現したら絶対に面白いことは確実だが、どこも実際にはやろうとしないだろう。だから業界内で噂にもならず、いつのまにかこうして出来上がっていたことに驚いたのである。

じっさい見てみると、なるほどこれは面白い企画だ。実名の持つパワーは予想以上のインパクト。三田村邦彦演じる菅直人がイケメンすぎるきらいはあるが、感情を揺さぶる力はフィクションの比ではない。

とくに実名最大の効果は、観客それぞれが事故当時に感じていた思い、感情を明確に思い出すということである。

私の場合、それは猛烈な怒りであった。いつもにこにこ温厚な私はそういう感情はさっさと忘れることにしているのだが、この映画を見て昨日のことのようにあの怒りを再体験することになった。映画とは感情を揺り動かすためのものだから、その意味では大成功であろう。と同時に、あの教訓を生かすことなく、状況を揺り戻そうとする人たちが復活してきていることを指摘せずにはいられない。

なにしろ、正確な被害と事故のメカニズムを予測していた野党議員の進言を、官僚的答弁であしらった、危機意識の欠片もない男が現在の総理大臣である。

きわめて具体的で科学的な予測を、自分よりはるかに詳しい議員が教えてくれたにも関わらず、何の手立ても打たずに爆発を防ぐことができなかった人間が、危機管理に強いと自称して戦後の安保体制をひっくり返す解釈改憲を強行する。まったくもって悪い冗談としか思えない。

いずれにせよ、この映画の主目的は原発事故を思い出させ、そこで繰り広げられたデマに反論する、本当に責任がある人間について考えさせるというものだから、このパワフルさは評価できる。

なおそのデマというのは、たとえば菅直人が海水注入をやめさせた、といったものが含まれる。ちなみにデマを拡散したのは安倍首相その人である。まったく、これもひどい冗談のようだ。

とはいえ、ちょいと民主党政権(当時)に優しすぎやしないかと思う人もいるだろう。その感覚はある意味正しい。というのもこの映画は、民主党の政治家に近い立場の人たちが企画した映画だからだ。だからこその情報量であり、また資金もプロデューサーが単独で準備したために、通常起こりうる様々な圧力や横やりを気にせずに作ることができたというわけだ。

そうした成り立ちだから、民主党のプロパガンダであろうとの批判は当然起こりうる。そして、そうした視点でみることもまた重要である。観客にとって大事なことはどちらかへの肩入れではなく、事実を知ることだ。成り立ちをここで解説することで、その助けになるだろうと私は考えている。

ちなみに私は、上記のようなことを直接この映画を作った人たちに問うてみたが、それでも事実については一切曲げていない、当事者の誰にきいても、これは嘘だといわれる箇所はないと彼らは胸を張った。国会事故調や東電のテレビ会議映像、当事者への直接取材といった一次情報をもとにこの映画の脚本は作られている。主観が入るマスコミ報道など、二次三次情報を元にしたわけではないということだ。

そのうえで私が見るに、なるほど民主党政権にとって、致命的なマイナス点は描いていないかもしれない。私は民主党の支持者ではまったくないし、むしろ彼らの責任について、突っ込みたいところはいくつもある。

ただし自民党政権になって以来、与党側に偏った情報が蔓延する現在、そのカウンターとしての存在価値は大きい。我々庶民には、プラスマイナスどちらの情報も必要である。片方に片寄った世の中は危険である。

やはり先程のようなデマは正されるべきだし、菅直人が厳しい再稼働基準を課したために史上初の全原発停止をはたした功績は高く評価されるべきである。

なぜなら彼が、厳然たる事実として全部の原発が止まっても停電など起こらないと証明したことで、天文学的な金額を突っ込んで推進側が作り上げてきた原発安全神話、平たく言えばプロパガンダが砕け散ったのである。国民がまじめに払ってきた電気料金が、そんな事のために使われていた、その流れを菅直人は断ち切ったのである。

原発村の住民にとっては、きっと殺したいほど憎い相手だろう。事故直後に出演したテレビの討論番組で、私の目の前で「原発を止めたら文明生活が送れなくなる」などと吹かした専門家とやらは、今どうしているのか。いつか彼が命つき、くたばる瞬間に、嘘と欺瞞にまみれた自分の生きざまを、はたして周りで見つめる家族に誇れるのか、本当に後悔はないのかといま問うてみたい。

そして彼らのような嘘つきは、いまだ一人も責任を取っていない。これが美しい国、ニッポンである。

そろそろまとめるが、「太陽の蓋」が挑んだ実名劇の効果は、予想以上に強烈なものであった。事件、事故を風化させないためにこのやり方は効果てきめんである。ある意味、ドキュメンタリーをすら凌駕している。

願わくば、こうした意欲的な映画がメジャーからも出てくる風通しのいい国になってほしいと思う。この映画が直面している予算上、作劇上の限界をみて、皆さんもきっと感じることが多々あるだろう。それこそが、日本の映画界の限界そのものである。



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