「ジミー、野を駆ける伝説」70点(100点満点中)
監督:ケン・ローチ 出演:バリー・ウォード シモーヌ・カービー

悪化する一途の労働問題

自他ともに認める左翼監督ケン・ローチは、同時にきわめて優れた人間ドラマを量産する熟練のストーリーテラーでもある

内戦が終結してから10年ほどたった32年のアイルランドの田舎町。アメリカから帰ってきた労働活動家のジミー・グラルトン(バリー・ウォード)は、昔の仲間たちに頼まれ住民のための集会所を再建する。そこで芸術やスポーツなどを楽しみつつ交流していると、教会以外での住民の団結を恐れる神父シェリダン(ジム・ノートン)の心無い妨害が始まった。

ケン・ローチが毎度すぐれていると思うのは、題材におぼれないその冷静さである。この映画にしても、世界中の観客がアイルランドなんて国や、まして無名な労働活動家なんかに興味など無いことを彼はよく承知している。

だから彼はこの映画が実在人物の伝記ドラマであるとか、史実だということにはほとんど無頓着である。

むしろ彼は、その主人公すら自分が伝えたいことを代弁する、いわば単なる駒として最適に配置し、動かしてゆく。伝記として正確さを期そうとか資料価値を高めようとか、そういうアプローチは感じられない。

彼はこの時代におきたアイルランドの事象、そのことじたいではなく、対立の構図を見せ、伝えようとする。「これは昔話だけれど、現在のあなたたちの社会が抱える問題と同じでしょう」と。

そしてそれは、確かにケン・ローチのいう通りなのである。

たとえばジミーが労働者のため熱く演説する姿は感動を呼ぶが、その内容、糾弾する問題がいまだまったく世界中で解決されていないことに、観客は同時に絶望する。見るものの心をこういうやりかたで振り回し、魅了する。これぞケン・ローチ映画である。

ここでジミーが作るホールとは、たんなる集会所ではない。そこへの迫害は、権力側による労働者間の断絶と団結阻害の象徴である。つまりコミュニティの価値は、ホールの利用者以上に権力者がよくわかっているということだ。彼らの支配を揺るがす可能性があるものとして。

やがて搾取構造のエスカレートによって労働者は賃金とともに、それ以上に大切な考える時間を失う。その結果、社会は永遠に改善されない、というわけだ。

ケン・ローチのこのメッセージはぐうの音も出ないほどに正論であり、説得力がある。

「ジミー、野を駆ける伝説」によって再び鳴らされるケン・ローチからの警鐘は、もちろんこの日本にとっても当てはまる。そこに暗澹たる気持ちになるものの、映画のラストでは一筋の希望を見せ、明日もがんばろうとの気持ちを呼び起こしてくれる。

こうした優しさが、ケン・ローチ作品が愛される理由である。イギリスの頼もしい名匠の腕は、まったく衰えていない。



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