「6才のボクが、大人になるまで。」80点(100点満点中)
監督:リチャード・リンクレイター 出演:パトリシア・アークエット エラー・コルトレーン

同じ俳優で12年間撮影し続けた劇映画

ドキュメンタリー映画で制作&取材期間ウン年なんてのは珍しくもないが、劇映画で撮影期間12年というのは尋常ではない。しかもキャストは最初から最後まで同じ俳優がやりとげる。「6才のボクが、大人になるまで。」は、そんな素っ頓狂な製作手法が話題の家族ドラマである。

テキサス州の小さな町で暮らす少年メイソン(エラー・コルトレーン)は、母オリヴィア(パトリシア・アークエット)が転職のため大学に再入するとういことでヒューストンに引っ越しする。そこで新しい義父の訪問や同居、暴力等々、ありふれてはいるが彼らにとっては波乱万丈の少年時代を過ごすことになる。

キャストのほとんどが12年間、断続的に撮影を続けたので、この映画の中では登場人物がリアルに歳をとってゆく。お母さん役のパトリシア・アークエットは年々ぽっちゃり度合いを高めていくし、登場時6歳だった主人公少年エラー・コルトレーンは映画の終盤では18歳の立派なヒゲ面青年になっている。

通常、映画で時の流れを表現するには、子役を使うとか、老けメイクを採用するとか、あるいは最近はCGという手段もある。いったいなぜリチャード・リンクレイター監督は、実際に12年間も同じ俳優で映画を作ろうなどと思ったのか。

その、最大のセールスポイントに演出上の必然性が見られる点が、高評価の理由である。

実はこの映画で最重要な演出テクニックは「12年間同一役者」という点ではない。それ以上に監督は、「登場人物の加齢の流れをを意識させない」という点にどうやら力を注いでいる。

具体的にいうと、この映画は12年間という長い期間の物語であるにも関わらず、いったいいまが何年のシーンなのかという情報をほとんど観客に与えない。

テロップも出ないし、ニュース映像などで伝えることもほとんどない。時代を感じさせるゲーム機などが登場することもあるが、決してはっきりとは伝えない。これは、明らかに故意である。

つまりリチャード・リンクレイター監督は、「あれれ、映画を見ていたらいつの間にかエラーくんの背が伸びてる! パトリシアさんのしわが増えている……と思ったらエラーくんに髭が生えてるじゃん」と、このように感じさせたい。感じさせることに全力を尽くしたということだ。

そのためには時代(=年齢)の変遷を観客に決定的な情報として伝えてしまう「役者の交代」は絶対にNGであった。やむをえず、実際に役者たちに年をとらせる必要があった。その上で、各時代をシームレスにつなぐことで、"いつのまにか時間がすぎている"という「現実の時の流れ」と同等の疑似体験をさせたかったのである。

実際現実では、子供たちはいつの間にか成長をとげ、この間まで赤ちゃんだったはずが自らの足で歩き、やがて小学生になり、声変わりをする。その成長の節々に「シーンチェンジ」などない。役者が交代するように一気に見た目が変わることもない。本作のようにシームレスに、いつのまにか変化している。

そして過ぎ去った記憶はいつしか薄れ、簡単に消えかけている事に人は愕然とするのである。それが人間、人生というものなのだと、この監督はいっている。

この映画を見ると、たしかにいつの間にか主人公は成長する。そしてかわいらしいなあと思ってみていたはずの、ほんの数十分前の序盤のエラーくんの顔を、私たちはあっという間に忘れてゆく。まさに、12年間を2時間45分で疑似体験させる、画期的な映画である。

それにしても、そんな離れ業でいったい監督は何を伝えようというのか。

それは映画の最後にある女の子がセリフの形で伝えてくれる。これ以上ない親切設計の映画といえるだろう。さすがに12年間もかけて作った映画だから、多少やぼったくても全員に言いたいこと(作品のテーマ)を伝えておきたくなったのか。

本作を見ると、人は消えゆく記憶を止めることはできないのだなと再確認する。あんなにかわいらしかった自分の赤ん坊の顔と声すら、人はすぐに忘れてしまう。ビデオにでも撮っておかない限り。

だとしたら、私たちはいま何をするべきか──。その、すばらしく感動的な教訓を教えてくれる点が「6才のボクが、大人になるまで。」最大の美点である。

この上なく退屈で、大したことも起こらない、まさにザ・ありがちなストーリーだが、このメッセージと伝達手法だけは完璧というほかない。いいか悪いかといわれたら、とてもいい映画だといえるだろう。



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