「海を感じる時」20点(100点満点中)
監督:安藤尋 出演:市川由衣 池松壮亮
主演女優のキャラ違いが惜しい
女優が初ヌードになるというのは、これだけ裸が溢れる現代においても特別なものだ。まして本人たちにしてみれば、どこで脱ぐかは一大プロジェクトのようなもの。人気など周囲の情勢をはかりながら、最高のタイミングで発表したいと考えるのが当然だろう。
だが、その戦略的思考が正しいとは限らないのが怖いところ。市川由衣がすべてをさらけ出した「海を感じる時」を見るとまさにそう痛感する。
新聞部の部室で授業をさぼっていた女子高生・恵美子(市川由衣)は、同じくやってきた先輩の洋(池松壮亮)に、密室の中で唇を奪われる。以来一途につくし続ける彼女は、しかし洋からは「女の身体に興味があっただけで好きでも何でもない」と冷たくあしらわれてしまう。
「海を感じる時」は文学映画で、中沢けいが18歳で発表し、その過激な内容で世間を驚かせた原作がもとになっている。当時の映画化オファーをすべて断った原作者が30年ぶりにOKを出し、当時の脚本で映像化することになった。だからこの映画は、ちょっと時代背景がわかりにくい。市川らの髪型が現代風すぎるのも原因の一つ。
さて、それはともかくグラドルとして人気を博し、健康的なトランジスタグラマーなイメージがあった市川が、これほど過激なヌード作品を発表するとは衝撃である。ヘアこそ見えないが、バストトップもお尻も全部明るいところで公開しており、全国のお父さん大喜びは間違いない。
柔らかそうな胸は予想より小ぶりで、グラビアでは頑張ってよせてあげていたんだなあと、その苦労を想像するとエロさ倍増である。彼女のようなふにゃふにゃタイプの胸は寄せアゲの技が効果を上げるのである。
身長が低いこともあって、iCloudなハリウッド女優らと比較すると思った以上に小柄で華奢だなと感じさせるが、この役柄を演じるにあたってとくに問題はない。
もっとも、一時は立て続けに話題作で主演を張っていた彼女がこんな小さな作品でヌードになるというのは、いやおうなしに落ちぶれ感を感じさせる。脱ぎ場に文芸作品を選んで少しでも格調高くプレミアム感を出したいという、戦略的判断を感じさせる点もよろしくない。
そういう昭和的発想は、いまや白けるだけ。市川は大衆的作品で人気が出たのだから、その手の明るい作品でボロンと脱いでしまえば良かったのである。出し惜しみ感を感じさせたら本格女優としてはおしまいである事を、事務所の方々は知るべきである。
さらに悪いのは、本作で彼女が演じる恵美子は、そうした「性的魅力を武器にする、駆け引きの材料にする」女とは真逆のキャラクターなのだ。
およそ若い女というものは、意図しようがしまいが「セックス」を武器に生きていくほかない。婚カツでも、結婚生活(序盤)でも、あるいはアイドルでも、会社の事務職であろうとそれは同じだ。若い女性たちは自分が持つ切り札である「肉体的魅力」を本能的に利用している。あまりに当たり前すぎて、おそらくほとんどは意識すらしていないだろう。
だが恵美子だけは違う。彼女は第三者から見れば「結婚前に性交渉するなんてだらしがない」「すぐに許すなんてバカね」「股を開いて男を引き止めるしかない、ヤリマン尻軽よね」としか見られない。映画を見る観客、とくに女性客の中にもそう感じる人がいるかもしれない。
だがそれはブーメランである。そんな風に考えているものこそ、セックスを利用する生きざまを肯定し、なんの疑いもなく実行している広義の売春婦、無意識の娼婦に過ぎない。
それに比べ、一見「哀れな女」にみえる恵美子こそが、セックスを駆け引きの道具に使用しない、真の意味で「純愛」に殉じたピュアな女である。この話は、そういう事を言っている。
このダイナミックかつ挑発的な問題提起、世間の常識を蹴飛ばす反骨精神こそがこの物語の本質である。
繰り返すが、恵美子は「哀れな」売春婦ではない。愛する者が欲するものはすべて無条件で与える。見返りなど求めない。そんな気高い精神をもつ彼女が、この駆け引きばかりの薄汚れた世の中では、バカ女と揶揄されてしまう。
そんな偏見を跳ね返すほどの圧倒的「潔さ」こそがこの主人公のすべてなのに、そこに潔くない戦略的思考によってキャスティングされた女優が座っていては示しがつくまい。本作の出来がイマイチなのは、そこにすべての原因がある。
綺麗な裸をみせてくれた市川の覚悟や演技に文句を言うものではないが、この映画の完成度を上げたいのであれば、絶対にそういう「打算」イメージを主演女優にまとわせてはいけなかった。そこに事前に誰かが気づいていれば、と悔しく思う。