「GODZILLA ゴジラ」55点(100点満点中)
監督:ギャレス・エドワーズ 出演:アーロン・テイラー=ジョンソン 渡辺謙

エメリッヒ版とは雲泥の差だが

日本版一作目「ゴジラ」(54年)の「そのうち行き過ぎた科学技術によりしっぺ返しを食らうぞ」とのメッセージはまぎれもなく先見性があるものであったが、それをハリウッドが二度目の実写化でようやく言及したからといって、日本の愛国的映画批評家たる私が手放しで傑作と褒め称えるなどと思ったら大間違いである。

科学者ジョー(ブライアン・クランストン)は、職場である日本の原発事故で愛する妻を失った。15年後、米海軍の爆発物処理隊員である息子のフォード(アーロン・テイラー=ジョンソン)は父とその事故現場を訪れることになるが、そこでは原発の廃墟どころか、想像を絶する極秘研究が行われていたのだった。

98年のローランド・エメリッヒ監督版「GODZILLA ゴジラ」こと、トカゲ捕獲ムービーの出来があんまりだったがために、今回のギャレス・エドワーズ監督版を見るオールドファンの多くは、随所に感じられる日本版への愛情表現を喜ぶことだろう。たしかに前作(?)にくらべると雲泥の差、よくできている。

日米政府の動きなど背景世界の反応については荒っぽく、リアリティにおいてかなり疑問が残るものの、人間目線を中心とした現実的なカメラワークは怪獣映画に十分な現実味をもたらしている。1時間も引っ張ってから吼える巨大ゴジラのマッチョな造形および登場シーンもたいへん盛り上がる。

地球の生態系とでもいうべき「世界のバランス」を戻そうとするゴジラの行動原理が予定調和すぎて、恐怖を感じる場面がまったくないのはマイナスだが、とりあえず見た目に関しては日本映画とは比較にならないパワーを持っている。

あとはゴジラオタクである監督が、敗戦からGHQの占領政策終了直後の日本人の複雑な感情を背景とするゴジラの本質にどこまで迫れるかであったが、これはやはりアメリカ製品、あるいは白人文化の限界というものを感じさせた。

怪獣覚醒の最終的な引き金、あるいは母胎となるのが日本の原発に変更されたのは、福島の現実がある以上、苦々しいものの批判はしない。それにあわせて大国の身勝手な核実験が、怪獣退治のための正当防衛に設定変更されている点も、釈然としないがまあスルーしよう。

私がそれ以上に不満なのは、2014年になってもいまだ54年の一作目と同じようなことを言っているその保守性についてだ。

あのメッセージは、冷戦本格化の前に、唯一の被爆国たる日本が言ったから立派だったわけで、14年の現在になっても繰り返すようでは退化というほかはない。それでも英国人監督だからか、「正義の核」を利用して怪獣を滅ぼそうとする米軍を「人類の愚かさ」の象徴として描いたあたりはまだマシであったが、しょせんこのあたりが白人の自己批判の限界である。

しかし、いまや日本では科学=原子力を利用する側の傲慢さとか、そんな段階の議論などは時代遅れもはなはだしいわけだ。現実問題として破滅的な事故が起こってしまって、いったいその原因は何だったのか、責任は誰にあるのかを一刻も早く追求しなくてはいけない。

それをあやふやにしているのが一番の問題だし、起こってもいない核戦争を議論していた冷戦期との最大の違いである。現代日本を舞台に、原発事故まで描くというのであれば、こうした現状を踏まえて54年版よりもい踏み込んだ、進化したメッセージを発するのがクリエイターとしては当然求められる最低限のレベル。それが、「ゴジラ」をリスペクトするという事でもあろう。

繰り返すが、現実が54年版ゴジラの危惧そのものとなってしまった現在、過去と同レベルの主張しかできないところに本作最大のがっかり感がある。

とはいえ、芹沢猪四郎博士役の渡辺謙などは唯一、原子力問題について思わせぶりなコメントを出しているし、そうした物言いからは日本人キャストとして監督以上にゴジラの本質を理解しているのだろうと思わせる。監督らの反対をねじふせ「ゴッジーラ」ではなく「ゴジラ」と日本語の発音で怪獣を呼んだ、そのテイクの採用を押し通したエピソードにもその思いは表れている。

もっともギャレス・エドワーズ監督も超低予算映画の次がこのビッグバジェット映画、しかも難しいゴジラのリメイクである。いろいろなプレッシャーのなか、相当に頑張ったのだろうと思う。とりあえず、ここはお疲れさんとねぎらっておきたい。



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