「家路」60点(100点満点中)
監督:久保田直 出演:松山ケンイチ 田中裕子
想像力の欠如という悲劇
「家路」の久保田直監督は、こいつを反原発の作品にしたくなかったと語っている。見終わった今となっては何の悪い冗談かと思うものの、じつは彼の態度こそ、原発という病巣の深さを物語っている。
誰がみたって「家路」は強烈きわまる反原発のメッセージドラマであり、それ以外の解釈の余地はない。
だが、それでもこうしたコメントを言わなくてはどこかに致命的な問題が起きる。それを恐れているから監督はあんな事を言う。映画は大勢から金を集め、公開劇場を決め、つつがなく初日を迎えなくてはならない。その複雑な過程のあちこちに、ちょっとしたアクシデントでお蔵入りになる危険が潜んでいる。たとえこうした松ケン主演の作品であっても、である。
福島第一原発の事故による放射能汚染で、地元のある名家は家を追われてしまう。一家を継いだ総一(内野聖陽)と妻の美佐(安藤サクラ)らは、今や仮設住宅で暮らしている。そんな中、ある事情で地元を離れたはずの次郎(松山ケンイチ)が無人の実家に戻り、なんとコメ作りを始めているとの知らせが届く。
ワン・ビンという監督が中国にいるが、彼の作品は強烈な中国共産党批判でありながら、見た目はわかりにくいゲージツ作品風になっている。監督本人も政治的なコメントはしない。
なぜか。それは、彼が命を大切に、末永く共産党批判の映画を作っていきたいからである。
この日本で反原発の映画を作って単館ではなく全国公開をしようとしたら、彼と同じ事をしなくてはならない。それを「家路」は日本人に示した。それだけでも価値あるチャレンジであった。
そんなわけで、本作には人気俳優主演の家族ドラマの仮面をかぶせてあるから作品の本質はわかりにくく、反原発の人以外には届きにくい。それは作り手の力不足な一面でもあり、本作のマイナス点である。
では、本作品の本質とは何かといえば、それは原発事故で失ったものを、ディテール豊かに暴き出すという一点につきる。この映画には、いくつもそういう要素を見ることができる。
たとえばなだらかな稜線を何気なく撮るショットがあるが、よく見るとそこには高圧送電線と鉄塔が見える。遠い東京までこの無粋な構造物が続くわけだが、福島原発が永久閉鎖状態となった今ではその多くは無用の長物だ。
だが、燃料棒はどこかに行って見えなくなってもこれらは目前の風景から消え去ることはない。この電線によって、日本人は今日も美しい故郷の風景を切り裂かれ続ける。
あるいは仮設住宅で暮らす主人公一家の母が、北海道産の米を使っている事も注意深く見ているとわかる。
周囲が田んぼだらけの福島農家が、なんと他県の米を食っているのである。こんなブラックジョークがあるだろうか。言うまでもなく、この母親は孫に安全な産地の米を与えたいから福島産を使わないのである。こうした細部を見るため見せるための、これは映画である。
松ケンが地元の米を炊き、食べる場面はまるでグルメ映画のようで、とてつもなくうまそうだが、このシークエンスすら観客には不安感が残る。そう感じるよう巧妙に演出している。そして最大の問題はその演出が、いまや現実そのものだということだ。
そもそもこの監督はドキュメンタリー畑の人間である。そんな男があえて劇映画を撮る理由とは何か。一つしかない。ドキュメンタリーでは伝えられない何かを伝えたいから、劇映画を撮ったのである。
それはたとえば夫婦がセックスをするため、外の自家用車に向かう場面。これはドキュメンタリーでは絶対に描けないが、このワンシーンによって、仮設住宅暮らしの恐るべき拘束感とストレスを表現できるのである。そして気が重いことに、これも現在進行中の現実である。
原発問題の本質は、想像力(危機意識)の欠如した人間が、想像力(危機意識)のあるものをバカにする理不尽さの中にある。そのくせいざ事故が起こり被害がでれば、賢き後者をも巻き込むのである。愚か者が、善人の人生を道連れに台無しにした。それこそが本質である。
しかも、未だに反省どころかそのことにも気づきもせず、再稼働強行論をぶっている。その前に、愛すべき日本、故郷の土地を永久に失ったツケをお前たちはいつ払ったのだ。どうやって今後払うつもりなのだ。ウシジマくんに追い込みをかけられるまで、すっとぼけるつもりなのか?
映画「家路」が訴えてくるのは、そうした強烈かつ厳然たる「現実」である。
だが、本当にそれを知るべき人間たちは、これほどの映画を見ても何一つ気づくことはあるまい。彼らの持つ想像力は、この映画の監督が考えているよりもはるかに貧弱である。そこに作り手が気づきなんとかしない限り、残念ながら反原発映画の傑作は生まれない。