「ダラス・バイヤーズクラブ」75点(100点満点中)
監督:ジャン=マルク・ヴァレ 出演:マシュー・マコノヒー ジャレッド・レトー

あふれるリバタリアニズム

「ダラス・バイヤーズクラブ」はハイレベルな演出技法と役者の役作りを味わえる映画、すなわち見た目がわかりやすい「いい映画」だが、中身やテーマなど内容も、それに劣らずとんがった傑作である。

1985年のテキサス州ダラス。ロデオカウボーイのロン(マシュー・マコノヒー)は、大好きな酒と女を存分に楽しむ奔放な生き方を楽しんでいた。ところがそれが祟り、医師からHIV感染と余命30日を宣告されショックを受ける。生きのびるため病気について学び始めた彼は、偏見と誤解にみちたこの病気についてと、米国ですら遅れている治療法の現状を知る。病院で知り合った同性愛者のエイズ患者レイヨン(ジャレッド・レトー)の協力を得てロンは、未承認薬を求めメキシコへ向かうのだが……。

まず観客が驚くのは、エイズ患者役マシュー・マコノヒーの激やせ芸である。デニーロアプローチを地でいく彼は、余命30日を宣告された時点ですでに常軌を逸した痩せ方をしているが、そこからさらに病的にやせ細ろえていく。もっともこの役をやるには、これくらいやらないとどうにもならないわけだが、その期待に応えた点は特筆に値する。

この序盤は、額の傷がいつまでたっても治らないといったわかりやすい演出で、観客にもどこか不穏な印象を与えている。

偶然出会い、やがて盟友のような存在となるレイヨンを演じたジャレッド・レトーもそれに負けず劣らずいい味を出している。長年関係が悪かったであろう、ある人物に会いに行くシーンがあるのだが、あきらかに私利私欲とは無縁の行動であり、このキャラクターが純朴な愛の人であったことが伝わる名場面となっている。本作一番の涙を誘う演技といえる。

この二人が、誰もが予想した通りアカデミー演技賞を受賞したことは、まったく異論のないところ。

次に、映画の中身も興味深い。まず見て驚くのが、主人公がやろうとしていることの矛盾性である。

まずこの時代は、HIVについて、一般の医者でさえ同性愛者の性行為で移るものだと考えているレベル。一般人に至っては単なる接触程度でも移るかも、と恐れられる始末だ。治療の現場でも、今ならとても使わないような薬剤を使い続け、結果的に患者の寿命を縮めるようなことをやっている。

そこで主人公のロイは、独学で先進医療の情報を集め、世界中を駆け回ってその治療薬を入手し、結果的に余命30日の壁を打ち破る。それどころかおなじ病気の患者を多数、自らの最新療法で延命させるのである。

その上、それを巧妙に合法的なビジネスとして濡れ手に泡の大儲けをするのだから、おそるべきバイタリティ。世界一元気なエイズ患者である。

むろん、彼のしていることは当時の医療界や政府の方針に刃向かうと同義だ。だから社会の常識に背中を向ける覚悟が、ダラス・バイヤーズクラブのメンバーには要求される。

そんな状況だからロイは、逆に政府に対して治療薬AZTの危険な大量使用を今すぐやめ、「ダラス・バイヤーズクラブ」の先進的な治療を認めるようかけあうわけだ。そして、この行動こそがきわめて矛盾に満ちているわけである。

考えてみれば、そもそも彼が金銭的に成功しているのは米政府が古色蒼然とした間違った治療法を推進しているからである。だから、こんなことをやって政府がそれを正してしまえば、彼は自分の収入源を失うことになる。

ではなぜそんなことをするのか。自分のためか? NOだ。彼はすでに完璧な治療法も、治療薬の入手ルートも持っており、今更政府の助けなど必要ない。

繰り返す。ロイはなぜ、命を削ってまで政府側とのヘビーな交渉を続けようとするのだろう……。

そんな彼の行動の矛盾に気づいたとき、観客は胸を打たれ、ラストシーンのすばらしさに感動するのである。

ところで、こうしたストーリーが今のアメリカ映画で出てきたことは偶然ではあるまい。クリミア問題で強硬策が取れないように、もはや海外で警察官を演じる余力がなくなってきた現代アメリカでは、人々はリバタリアニズムに傾倒するのが自然な流れというもの。

リバタリアニズムとは、簡単に言えばお上は余計なことをするな、俺たちは俺たちの自己責任で自由にやるから、邪魔だけはしないでくれという考え方である。今のアメリカ人の心には、こうした自由主義的ストーリーがもっとも響くということだ。

だからこの映画は、80年代を描いた作品ながら、きわめて現代的な香りを放っているのである。



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