「ビル・カニンガム&ニューヨーク」70点(100点満点中)
Bill Cunningham New York 2013年5月18日より新宿バルト9ほか全国ロードショー 2010年/アメリカ/英語/84分/1.78:1/ステレオ/配給:スターサンズ、ドマ
監督:リチャード・プレス キャスト:ビル・カニンガム アナ・ウィンター トム・ウルフほかセレブリティ

何かを捨てて何かを得る

断捨離、という言葉がある。人の容量とは、すなわち脳みそのハードディスクも生物的時間も有限であるから何かを捨てないと新しいものが得られない。これがよき人生を送るための肝であると、そういうことを言う人もいる。大切なものを失っても、しばらくするとすっかり忘れて、前よりも明るくなれた経験をした人も少なくないだろう。

だが、だからといって何でもかんでも捨てられないのが人の性。かくしてあなたの部屋の押入れには、とてもゲストには見せられない人生の宿便が際限なくたまることになる。ああ、本当ならもっとも大切なもの以外はシャットアウトして生きてみたいのに。そうしたら、誰よりもその分野で羽ばたくことができるのに。

「ビル・カニンガム&ニューヨーク」は、そんな、誰もが思いながらもそう簡単にはできない生き方を実践した男のドキュメンタリー。50年以上もニューヨークの町を自転車で走り回りながら、際立つオシャレをしている人物と服をスナップし続けてきたカメラマンの物語だ。

この、笑顔がチャーミングな老人は、ファッション界では「彼に黙殺されるのはサイアクの仕打ち」とまでいわれる大物カメラマン。だが彼は金にも名誉にも、オンナにも執着しない。「部屋にはバスもトイレもキッチンもいらない、掃除しなくちゃならないからだ」などと、とんでもない事をしれっと語る。つまり、そんな暇があるなら街で写真を撮っていたいのである。心底NYを愛し、心底カメラを愛している真性の服バカ、カメラバカ、である。

彼のニューヨークタイムズのフォトコラムは長期連載で、そのレイアウトや写真選択にかける情熱はハンパではない。助手の編集者が根を上げてしまうほどで、それを毎週続けている。このプロフェッショナルな仕事風景からは、とくに男性ならば得るところが多いはずだ。

ヒエラルキーがあることは理解した上で、まったく無視して写真を撮る一貫性も気持ちがいい。どんなに高い服をきていても、自前で揃えたわけではないセレブには見向きもしない。逆にたとえバイク便のライダーであっても、個性的な装いをしていれば喜んでとる。徹底したフェアネス精神の持ち主だ。

彼は写真のためにすべてを犠牲にして生きている。友人も恋人も家族も気にしない、ベッドもない、キッチンもない、そんな部屋で寝起きをし、ひたすらカメラと自転車、トレードマークの青い上っ張りとともに過ごしている。ある意味、仙人みたいな生活である。カメラ小僧ならぬカメラ仙人。世界一の情熱を持ち続けている。

あまりにも潔いし、価値観が確固たるものでかつシンプルだから決断も早い。見ているこちらはただただ呆然。絶対こんな生き方できないとちょっと引いてしまう。

ところが監督は、最後の最後にこの超人から笑顔を消し去る強烈な質問をぶつける。一見たいした質問でないように思えるが、ここでビルは激しく動揺する。その変化にこちらも不安心がつのり、急激に映画の温度は下がってゆく。超人の仮面がはがれる瞬間である。

さすがは構想、いや交渉8年を我慢した監督。やっとこさ撮影許可が出た憧れの被写体を、質問ひとつでその本質的な内面まで引きずり出してしまった。ドキュメンタリー作家かくあるべし、だ。

この最後の流れで明らかになるのは、この映画が、多くのものをあきらめることで大きなものを得ている人間の話だということ。

すべてを捨ててでもほしい何か見つけている人は、むしろ幸福といってよい。捨てることはできる、だがそのあと何をする? というのが一般人の限界だ。それでも、捨ててみたら見えてくるものもあるはずで、この映画を見るとそんな希望がわいてくる。捨てたい何かを抱えているが捨てられない、そんな人に強く勧めたい。



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