『さあ帰ろう、ペダルをこいで』65点(100点満点中)
SVETAT E GOLYAM I SPASENIE DEBNE OTVSYAKADE 2012/5/12(土)〜シネマート新宿、5/19(土)〜シネマート心斎橋 ほか全国順次公開 2008/ブルガリア=ドイツ=ハンガリー=スロベニア=セルビア/105分/カラー/1:1.85/ドルビーSRD 後援:駐日ブルガリア共和国大使館 特別協力:日本バックギャモン協会 配給:エスピーオー
原作:イリヤ・トロヤノフ 監督:ステファン・コマンダレフ 脚本:ステファン・コマンダレフ、デュシャン・ミリチ、ユーリ・ダッチェフ、イリヤ・トロヤノフ 出演:ミキ・マノイロヴィッチ カルロ・リューベック フリスト・ムタフチェフ アナ・パパドプル

心あたたまる良質な「家族」映画

数千年間続く皇族を戴く日本人にとって「国」とは不変なる存在だが、世界中の多くの人にとっては違う。

アメリカは建国してわずか数百年だし、中国は数十年、ロシアだってソ連崩壊からはいくらも経っていない。お隣の韓国などは80年代後半まで軍事政権で、今とは大きく体制が異なる国だった。日本のように異様なまでに安定した国というのは世界中にほとんど存在しない。

人は人生の中で自分が属する国が大きな体制変換を経験すると、自らのルーツに対する信念が揺らぐのかもしれない。この映画を見て、私はそう感じた。

両親を同時に事故で失ったアレックス(カルロ・リューベック)は、唯一生還するも記憶を失う。そんな彼の前に故郷ブルガリアからやってきた祖父(ミキ・マノイロヴィッチ)は、おせっかいと疎まれつつも様々なことを試して記憶を取り戻そうとするがうまくいかない。やがて彼は、タンデム自転車に無理やりアレックスを乗せ、ヨーロッパ大陸を横断しブルガリアを目指す旅に出る。

この映画は、ブルガリア人の監督が描く自分の国の昔と現在である。そこに生きる人たちの苦悩と成長、そして彼らが運命にどう折り合いをつけるかをユーモラスに描いたドラマといえる。

こうしたテーマはあまり生真面目に描くと、その国以外の人にはおもしろくない。そこでこの監督は本作をどんな国のどんな世代の人でも楽しめるように、記憶喪失の青年を、おせっかいな祖父が導く風変わりなロードムービーに仕立てた。

頑固者だが含蓄に富んだ言葉をはくこの祖父のキャラクターは共感が持てるし、全世界的に有名なパックギャモンを人生を象徴するアイテムとして物語に絡めていくことで、どんな国の人々でもとっつきやすくなっている。そのうえで、自分の国であるブルガリアについても深く知ってもらう。見事にその工夫は成功している。

とくにドラマ作りが上手だなと思うのは、例えば冒頭、両親が事故死する場面。この時点までは両親にほとんどセリフがなく、さらにある理由で仏頂面をしているために観客は感情移入のしようがない。だから、事故でこのキャラクター達が死んでも、何の悲しみも抱かない。

これは、記憶を失ったこの時点における主人公の気持ちと、観客のそれをシンクロさせる演出上のテクニックである。

主人公はその後、祖父と自転車の旅に出発し、徐々に記憶を取り戻していく。その過程で、両親との思い出も回想シーンとして描かれるが、ここで初めて両親の人となりが観客にもわかってきて、彼らがこの世にいない悲しみを主人公と共有する仕組みである。この順序こそが、ドラマに観客を引き込む要となっている。冒頭では死んでも何も感じない程度のキャラクターだった父親が、亡命者キャンプを抜け出すためにある決断をするシーンでは、誰もが涙を誘われるだろう。その感情変化のダイナミズムを味わえるのが、本作の魅力の一つといえる。

赤いミニカーなどアイテムの使い方も巧みで、とくに最後の最後まで逆転がありえるパックギャモンを人生にたとえた点は適切。サイコロの目に左右されるゲームとはいえ、そこには明らかに才覚の介在する余地がある。人生とまったく同じである。

時代の波に翻弄される小国で、人生まで振り回される登場人物たち。これに比べれば、良くも悪くも何千年も変わらないこの国で、アイデンティティーのブレを経験することなく生きていける我々日本人は幸せなのかもしれない。

だがそれは、こうした国の物語に実感がわきにくい原因でもある。この映画にしても、心あたたまるものの、後に何か大事なものが残るかといえば微妙。すぐれた作品でも、大満足するとは限らないのが映画の難しいところだ。



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