『コクリコ坂から』40点(100点満点中)
2011年7月16日(土)より、全国東宝系ロードショー 2011年/日本/カラー/91分/配給:東宝
企画:宮崎駿 原作:高橋千鶴・佐山哲郎 監督:宮崎吾朗 脚本:宮崎 駿・丹羽圭子 プロデューサー:鈴木敏夫 音楽:武部聡志 声の出演:長澤まさみ 岡田准一(V6) 竹下景子
≪宮ア駿の影響がちらほら?!≫
『コクリコ坂から』の原作漫画について、この映画化の企画者である宮崎駿は失敗作とまで言っている。少なくともあまり高く評価はしていない様子だ。一方監督の宮崎吾朗は、自身の原体験と合わせ好意的に語っている。どう考えてもこの父子(監督と脚本家の関係でもある)の間には齟齬がある。スタジオジブリにおける宮ア駿の絶大な影響力を考えると、私はかなり不安な気持ちになった。そんな状態で鑑賞したわけだが、結果としては案の定、中途半端な出来となっていた
1963年の横浜。父親を航海中に亡くした16歳の松崎海(声:長澤まさみ)は、実家の下宿屋を女手ひとつで切り盛りする活発な少女。そんな彼女が通う高校では、老朽化した文化部教室の建物を取り壊す予定で、一部学生たちが反対運動を起こしていた。その中心人物で新聞部部長の風間俊(声:岡田准一)と偶然出会った海は、その知性とバイタリティに惹かれてゆくが、二人の前には予期せぬ運命が待ち受けていた。
団塊世代専用・恋愛アニメ、といったところか。原作の時代設定を改変した意図も、その効果もほとんど現れておらず、思わずそんな風に称したくなる。むろん、当の団塊にこれを見せて喜ぶかは疑問だし、作り手もスポンサーもそんなニッチなコンセプトの企画を通すわけがない。
宮崎吾朗監督は、自分が生まれる前の、この時代の横浜で本当にコクリコ坂を描きたかったのか。はたして疑問である。とってつけたような窓外のネオンも、背景から浮いている労働者の姿も、こういうものを描いておけばノスタルジーを演出できるだろうとの浅薄な発想のたまものに見える。そういうものは、よほどの思い入れがなければ監督未体験の時代の描写であるから血が通わない。むしろ、あざとさすら感じてしまう。
この時代に対する強い思い、あるいは必然というべき理由がはたしてあったのか。父親に押し付けられたものを描いているだけではないのか。
出生の秘密、学生運動……なんだか使い古しの要素の寄せ集めのようだ。自転車、坂道、ティーンの恋愛も「耳をすませば」と差別化できるほどの魅力はない。これまたジブリにとっては使い古しだ。背景の絵は単純化され、かつて人々を驚かせたような圧倒的なクォリティも感じ取りにくい。ジブリには、動く絵に感激する、アニメーションの原点を忘れないでほしいと思う。
話にも、絵にも、演出にも目を見張るものがない。これでは凡作というほかはない。
それでも天才・宮ア駿が監督をしていたならば、シーンの力で見せてくれたのかもしれないが、悲しいかな宮崎吾朗監督は手が縮んでいるのか、それとも実力かはわからないが、そこまでの力を発揮していない。まるで宮ア駿のディフュージョンラインを見せられているようである。
なお私がこの映画で「これはダメだ」と感じたのは、ヒロインの母親がもし父親に隠し子がいたらと娘から聞かれて回答するシーン。
ああいう性格の母親にあのようなセリフを言わせる時点で、センスの無さを露呈しているようなものだ。いや、それはそれでいいとは思うが、これをドラマの最高潮に持ってくるあたりに演出家としての見る目のなさを感じるのである。
そこには意外性というものがまったく無く、感動もない。あれを言わせて観客を泣かせたいのであれば、母親の性格設定を、正反対の清楚な大和撫子的なものにしなくてはならない。ジブリの中に、ああいうキャラクターが好きな人がいるんだろうと想像するが、ここまで来ると自己満足の世界である。
ジブリ作品は出来栄えの点で低調続きで、時代性も完全に失いつつあり、このままでは先が心配である。多くの人が同じ批判を心の中で思っているが、何も変わらない。新作を見るたび残念な思いだが、次回作への期待だけは失わずにいたい。