『100,000年後の安全』65点(100点満点中)
2011年4月2日(土)より、渋谷アップリンクにて緊急公開! 2009年/デンマーク、フィンランド、スウェーデン、イタリア/カラー/79分/配給:アップリンク
監督・脚本:マイケル・マドセン 脚本:イェスパー・バーグマン 撮影:ヘイキ・ファーム 編集:ダニエル・デンシック 出演:T・アイカス C・R・ブロケンハイム M・イェンセン

≪福島原発事故後の日本人に見てほしい作品≫

男なら、東北出身の女の子というと、とたんに色めき立つのが常識。秋田小町なんて言葉があるように、実際はどうあれ、色白で気立てがよくお嫁さん候補には最適との評価が一般的なところだろう。

だが、3.11を境にその「常識」は消えてしまうかもしれない。

日本人は気づいているのだろうか。福島原発の事故を見て、なぜこの国から外国人が一目散に逃げ出したのか、その本当の理由を。

「外人は臆病だ」「外人は大げさだからね」「放射能の知識が無い」などと、したり顔で語るテレビのコメンテーターは、何一つわかっちゃいない。

そういう連中は、こう問えば理解するだろうか。「もしあなたが高貴なる家柄の男子で、絶対に世継ぎを生んでもらわねばならぬ結婚相手に、チェルノブイリ事故当時、チェルノブイリに住んでいた日本人女性を選びますか?」と。

外国人たちがすみやかに国外脱出したのは、このままとどまれば健康被害があるかもしれない上に、自分たちが被差別者になる危険性を本能的に悟ったからだ。とくに欧米人は差別というものに敏感である。なかでもヨーロッパ人は、チェルノブイリ事故ですでにそうしたことを体験している。

本来、これは日本人が真っ先に感じなくてはならぬ「感覚」なのだが、忘却能力世界一のわが民族は、「すでに自分が被曝者になっていること」を自覚している様子がない。ほんの数十年前に、被ばく者差別をしたりされたりしてきた記憶すら、まったく失っているのだから参る。

そう、3.11以降、日本人はいわゆるヒバクシャ差別問題の当事者となる事を運命づけられた。

とくに東北出身、なかでも福島出身の女性は、今後長きにわたって、外国人のみならず日本人からも目に見えぬ差別を受ける可能性がある。この理不尽に怒りを感じぬものはいまい。

被ばく者の子孫には死産流産が多い、奇形児、障がい児が生まれる……そういった俗説の多くは医学的に証明されたわけではない。だが、差別とはそれが事実であろうがなかろうが関係なく発生する。今でさえ、チェルノブイリの隣の村出身の女の子を息子が婚約者候補に連れてきたら、「なんとなく嫌だな」「やめてほしいなあ」と思う親は、少なくあるまい。

しかも、広島長崎は原爆だからほぼ即日、チェルノブイリでさえ10日間で放射性物質の放出は収まったのに、福島原発はいまだ放出中。そして政府はたったの20km圏内にしか避難勧告を出していない。

そんな近距離で、次から次へと放出され降ってくる放射性物質に、水から大気から、飲食物からじわじわと被曝するケースの人体への影響など、人類はこれまで経験したことがない。「テレビに出てる専門家」が「ただちに(略)」と否定したところで、大なり小なり差別は起こるだろう。

それもこれも、突き詰めればこんな地震大国に原子力発電所を建てたことが原因である。洗脳に近い強力プロパガンダによって世論誘導し、日米政府および官・財一丸となって進めてきた国策なので、一般国民にその責任はないと私は考える。たかが発電所ふぜいにこんなバカげたリスクがあることなど、誰も知らなかった。

だがしかし、日本人の多くはまだ「原子力推進政策」のリスクを完全に知っているとは言い難い。「100,000年後の安全」は、そんな日本人を啓蒙すべく、気鋭の映画会社アップリンクが福島原発事故を受け前倒し公開(本来は秋を予定)した、入魂のドキュメンタリーである。

この映画が描くテーマはまさに、いま全日本人が知るべき「原子力推進政策」の抱える最大のリスク。「高レベル放射性廃棄物の最終処理問題」である。

監督はアート系の映像作りを得意とするマイケル・マドセン(同姓同名の俳優とは別人)。フィンランドに建設中の最終処分施設オンカロについて、関係者のインタビューと、驚くべきことに施設の内部映像を紹介している。フィンランドがこのやっかいな原発の排泄物に心底頭を悩ませている姿が、延々と描かれている。

数万年もの間、放射能を失わないといわれる高レベル放射性廃棄物。これを半減期の短い放射性物質へと核種変換する夢の加速器駆動未臨界炉はいまだ夢のまま。同様の機能があると期待される高速増殖炉も、原型炉もんじゅが東日本を巻き込んでの討ち死に寸前というていたらくな今、これは日本にとっても他人事ではない。

映画の中で、フィンランドはこの地下500メートルの施設(建設中)の中に、放射性廃棄物を10万年保管する計画だと明かされる。

キリストが生まれてから数えてもたったの2000年。世界最古の木造建築・法隆寺が建てられてからは1400年。10万年ももつ建築物など、そもそもありえるのか……?

耳を疑うような、途方もない計画だがそれが現実。原発を運転していれば必ず発生する高レベル放射性廃棄物は、放射能が強すぎて、そのくらいの時間は隔離しておかないと危なくて生物は近づけない。万が一それらを地上でぶっちゃけてしまったら、福島やチェルノブイリの爆発事故が、ぽぽぽぽーんのCMくらいかわいく見える被害が出る。日本では、青森県六ケ所村の再処理工場がこのリスクをはらんでいる。ちなみにこの、我が国の原子力技術の粋を集めた再処理工場は、震度3で外部電源喪失(4月7日 23時32分)という、プルト君もびっくりの耐震実績を誇る。

さて、映画はオンカロ最終処理施設の成り立ちや事情を説明しつつ、やがて意外な展開になる。

「そもそも10万年て、そんな未来に人類はいるのか」「いまと同じ文明は続いてないかも?」「もし違う文明人がこれ見つけたら、貴重な遺跡か何かと間違って掘り出しちゃうんじゃね」「じゃ、看板に「掘るなキケン」て書いておこう」「いや10万年も持つメディアないだろ」「じゃ石碑にしよう」「つか同じ文字読めるとは限らないんじゃ?」「じゃ絵にしよう」──と、ほとんどブラックジョークのような哲学的やり取りに発展してゆく。

結局、10万年間、危険物を保管管理するというのは、もはや科学ではなく、哲学の領域ということがこれを見るとわかる。

ネアンデルタール人(10万年前)と意思疎通ができるのか、と問いかけるその発想には、思わずはっとさせられる。ネアンデルタールさんが、むちゃくちゃ危険なものを私たちに説明しようとして、私たちがそれを理解できるかといえば、とても無理だろう。だいたい、キケンといわれれれば見てみたくなるのが人間だ。どうせ古代人の危険物なんて、呪いのかかった玉とかそんなんだろうよと嘲笑しつつ……。

映画は、10万年後までこのフィルムが残るはずがないことを自覚しつつ、10万年後にこの施設を発見した未来人に語りかけるように展開する。その最後のナレーションは、しかし3.11後の日本人がみたら、衝撃を受けるような内容が含まれている。

関係者の証言を取り、かつ施設内部を撮影させてもらうためであろう、映画は一見中立的立場に見える。だが映像作りに詳しいものが見れば、効果音のかぶせ方や編集の仕方で、この監督がこうしたものに懐疑的な考えを持っていることがうかがえる。

わかりきった事を延々と議論しているような冗長さを中盤感じさせるものの、伝えようとする本質はいまの日本人にぴったり。私が見た朝一番の回は立ち見が出るほどの盛況だったが、みな意識の高そうな、きわめて真剣に鑑賞している観客ばかりとの印象を受けた。きっと気のせいではあるまい。



連絡は前田有一(webmaster@maeda-y.com 映画批評家)まで
©2003 by Yuichi Maeda. All rights reserved.