『花のあと』45点(100点満点中)
2010年3月13日、丸の内TOEI2ほか全国ロードショー 2010年/日本/カラー/107分/配給:東映
原作:藤沢周平「花のあと」(文春文庫刊) 監督:中西健二 脚本:長谷川康夫、飯田健三郎 出演:北川景子 甲本雅裕 宮尾俊太郎 相築あきこ 谷川清美
平凡な時代劇だが、庶民を安心させるにはちょうどいい
いまは皆が苦しい時代である。ろくな仕事はなく、結婚も出来ない。ブログを書けば暇人に荒らされ、つぶやきを書き込んでもだれもフォローしてくれない。人々は時代のせいだという。いまの世の中が悪いのだ、と。
そんな庶民の不満はやがて、「昔は良かった(はず)」との思考へ短絡的につながり、「俺が子供のころは……」「いや戦前の日本は……」「いやいや江戸時代の武士道ってのは」と、どんどんさかのぼって見たこともない時代を美化し、憧れの対象とする。
もちろん、苦しいのは今の時代だけでなく、バブル期も江戸時代もみなそれなりに苦しかったに違いない。倫理と道徳と博愛に満ちた理想的な時代など一度も、世界のどこにもありはしなかっただろう。
だがしかし、時代劇というものがいつでも愛される背景に、そうした人々の愛すべき勘違いがあることだけは間違いのないところだ。
江戸時代、東北の架空の小藩「海坂藩」。組頭の一人娘、以登(北川景子)は男勝りの剣術自慢で、藩随一の剣士、江口孫四郎(宮尾俊太郎)との立会いを希望する。その清清しい体験は彼女の心に大きく残り、やがて江口が出張先の江戸でひどい謀略にあったと聞かされた彼女は、真っ先に立ち上がるのだった。
藤沢周平の短編時代小説を基にした「花のあと」は、典型的なファンタジー時代劇(と私が勝手に呼んでいるもの)で、冒頭に書いたような庶民たちの鬱憤をはらすためには最適な一品である。ここには、失われた(と現代人が勝手に思っている)日本人の良さなるものが思いきり美化されて描かれ、そのまっすぐな登場人物たちの心、行動に迷わず涙することが出来る。
映像はひたすら綺麗で、望遠レンズでキャッチされた北川景子の横顔の美しさもまた格別。彼女を一人の人間として認め、ひそかに保護する婚約者役の甲本雅裕もまた、心地よすぎるほど善意に満ちた人物造形である。
さらに特筆すべきは、剣術の達人でヒロインとほのかな心の交流を交わす役柄の宮尾俊太郎。バレエダンサー出身とのことだが、たたずまいからしてまるで一般人とは違う。殺陣の経験などそうそうあるはずもないのに、その芸術的な身のこなしはベテラン時代劇俳優のそれをはるかに凌駕する。たいした逸材が現れたものだ。
これで上映時間をあと20分ほども縮め、北川景子のアクションにも気を使ったらさらに良くなったはずだ。
というのも、北川景子はかなり練習したと聞くが、それでも非力な彼女に男性と渡り合う剣士、という設定を演じさせるのはキツすぎる。ここは撮影スタッフが、もっと積極的にフォローしてやらなくてはいけない。たとえば引きの画面で二人のチャンバラをフィックスで見せるなど、いくらなんでも工夫がなさ過ぎる。これでは殺陣への不慣れさが目立つばかりで、時代劇専門でない役者に対して残酷だ。
そういう撮り方は、それこそ勝新太郎あたりの、下手な味付け不要の強烈な純度を持つスーパースターのアクションのときに採用すべきもので、北川景子をそれで良く見せられると思ったら大きな間違いである。
男性用より短め軽めにあつらえた模造刀を与え、カットを短く割り、構図やカメラワークを工夫するなど、現代ではいくらでもごまかしのテクニックが存在する。必要なときにそうした手法を取り入れるのは、決して悪手ではない。