『アバター』60点(100点満点中)
AVATAR 2009年12月23日(水) TOHOシネマズ 日劇、他 全国超拡大ロードショー 2009年/アメリカ/カラー/162分/配給:20世紀フォックス映画
監督:ジェームズ・キャメロン 製作:ジョン・ランドー 音楽:ジェームズ・ホーナー 出演:シガーニー・ウィーバー サム・ワーシントン ゾーイ・サルダナ スティーヴン・ラング ミシェル・ロドリゲス

凄い映画だが、その凄さが伝わることはないだろう

「タイタニック」のジェームズ・キャメロン監督、構想15年の大作「アバター」を見て思うのは、こういう作品を普通の映画館でみてもダメだな、という事だ。

下半身不随の重傷を追った海兵隊員ジェイク(サム・ワーシントン)は、事故死した双子の兄の代わりに惑星パンドラに派遣される。そこで彼は、神経レベルでリンクする人造の肉体「アバター」を操り、パンドラの原住民と交流、彼らの秘密を探る任務を命ぜられた。

「もう3D以外の映画はつくらない」と語る監督が、満を持して送る162分の超大作。私はこれをXpanD社の液晶シャッター方式のメガネをかけて見たが、これがどうにも難ありの代物であった。もともとこの方式のメガネは重いし、おまけに形がフィットせずかけにくい。同行した小顔の女性も、自前の眼鏡の上にかけていたのに大きすぎて落ちてきて弱ったと言っていた。作品に集中したい身として、これはつらい。このあたりは個人差があるが、私には合わなかった。

また、私が見た新宿バルト9の400名規模のスクリーンでさえも画面が小さすぎて、立体感はさほど味わえなかった。理想を言うならIMAXシアターの巨大画面だろうが、それが無理な場合、なるべく前方に座って視野の多くをスクリーンで覆うようにしないと、監督が意図する「惑星パンドラにいるような気分」を味わうことは難しいだろう。最後尾でゆったり鑑賞するのが好きな人に、現在の立体映画は向いていない。色が不自然だし、目と鼻が疲れるだけだ。

映画の内容は、理想主義のキャメロン監督らしいこだわりが随所に感じられ、また効果もあげているのはさすがと思わせる。

具体的には、架空の惑星パンドラの自然およびクリーチャーの造形について。役者の動きをトレースするパフォーマンスキャプチャーとコンピューター・グラフィックスにより作られたこの異生物たちは、わざとマンガ的なカラーリングや形にデザインされ、非現実的なものに見えるよう作られている。

現在のデジタル技術をもってすれば、いくらでもリアルにできるのになぜしないのか。そこにはちゃんと理由があるはずだ。

おそらくそれは、監督が本作で観客に「ある疑似体験」をさせようと考えているからではないか。

そのためには、冒頭から異生物たちに観客が愛着をもつようではいけない。ぱっと見は気持ちの悪い、できそこないのブルーマンでなければならない。彼らに感情移入するのは、具体的に言うと約1時間後である必要があり、そのために計算・調整されたキャラクターデザインがコレ、ということだろう。なぜ1時間後かといえば、本編のそのあたりから如実に作品のテーマをあらわす台詞等が増えてくるから(それを自然に受け入れてほしいから)、である。

もしこれが、もっと思い切りリアルな、たとえば肌の表面にボツボツをたくさんつけた灰色の爬虫類肌の不気味なヒトモドキだったら、人々は生理的に受け付けず、1時間では感情移入できない。反対にアニメ調すぎてもだめだろう。

すなわち人々は映画「アバター」を見ると、「最初は気味の悪い、絶対友人になどなれないだろうと思った異民族」と、「あれれ、相手を知るようになったら意外といいやつだった」と感じられる「疑似体験」ができるようになっている。

ターバンを巻いているだけで友人にはなれないなどと思ってしまう、傲慢かつ排他的になってしまったどこかの超大国の人々に「チェンジ」していただくために、これほど有効な「疑似体験」はない。

本作の企画が10年間も棚上げされていながら、急に数年前にゴーサインがでた理由は、「CG技術が進歩して惑星パンドラの生物が製作可能になったから」だけではあるまい。それと同じくらい、アメリカ人の間にこのテーマを受け入れる土壌が出来上がってきたからというのも重要な理由だろう。

この映画でもっとも驚くべきは、CGや立体の出来栄えなどではない。そんなものは枝葉の問題で、大事なことは気持ちの悪いブルーマンの世界を、いつの間にか観客が現実の世界のように感じ、受け入れてしまうことだ。それを綿密な計算の元にやりとげたキャメロン監督の、手綱の引き具合が凄いのである。

ためしに本作を見てみるといい。デカ鼻のラージグレイみたいな顔した女の子が、1時間くらいするといつの間にか可愛く見えてくるはずだ。それどころか、さらに時が経つとスレンダーな体まで色っぽく見えてくる。ちょうどそのあたりで、主人公のアバターと女原住民がある事をしはじめる。それはすべて綿密な計算の上で配置されたものであり、そのシークエンスを自然に受け入れるあなたの心、感情は、キャメロン監督によって意図的に導かれたものである。

その意識レベルに観客を連れて行くためにキャメロン監督が行った伏線やら演出の数々は、あえてここには記さない。だが、みな道理にかなったもので、まったくもって感心のきわみである。ちなみに上記のシーンでは、女性も同様に感じたというから、彼の演出は男女ともに作用したということだ。凄い監督である。

とはいえ、多くの人々は自分が物凄いテクニシャンの監督の手の上で転がされ、翻弄されたことなど気づく事さえないだろう。ちょいと残念ではあるが。

結末が近づくにつれ、監督が作品に思い入れた情熱が抑えきれず噴出してしまい、見ていて恥ずかしいほどになってくる。この過剰なロマンチシズムこそがキャメロン作品の特徴であり、また弱点でもあると思うが、これは味として受け入れるほかあるまい。

「アバター」はそんなわけで、なかなか高度な演出技法を味わえる作品ではあるが、一般の人にはわかりにくく、またそんな事はそもそもどうでもいいと思われてしまうに違いない点。3Dが限られた劇場でないと十分楽しめず、むしろ集中をそぐ可能性があるなどといった点から、表面的な満足度はさほど高くない結果となるだろう。



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