『ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜』60点(100点満点中)
2009年10月10日公開 全国東宝系ロードショー 2009年/日本/カラー/114分/配給:東宝
原作:太宰治「ヴィヨンの妻」 監督:根岸吉太郎 脚本:田中陽造 出演:松たか子 浅野忠信 室井滋 伊武雅刀

ヒロインはいい女だが、だからこそ男は耐えられない

同じ週に公開される『カイジ 人生逆転ゲーム』が新世代のだめ人間を描いているとしたら、『ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜』の主人公は元祖ダメ人間。生誕100年となる太宰治による短編『ヴィヨンの妻』をベースに、他のさまざまな作品の内容を組み込んだ、太宰文学(の中のダメ的側面)集大成のごとき内容となっている。

敗戦の混乱が収まらぬ時代の東京。才能あふれる小説家、大谷(浅野忠信)は、しかし精神的な重圧に抵抗しきれず、酒と女に溺れ、自殺のことばかり考えている。仕事もせず飲み歩くばかりで金もない彼は、ついに行きつけの小料理屋から大金を盗みだす。それを知った大谷の妻、佐知(松たか子)は、小料理屋の店主夫妻に頼み込み、とりあえず店で働き出すが、その朗らかな性格と美貌から、一躍人気者になってしまう。

傍目にはダメ夫の尻拭いをしてくれる最高の奥さんであるが、主人公は逆に嫉妬に狂い、さらに欝へと落ち込んでいく。

冒頭に書いたとおり、原作とは異なる展開をたどるが、太宰ファンなら「お、これはあの短編から引用してるな」といった楽しみ方ができる。太宰本人の波乱万丈な人生における重要な登場人物をモデルにしたと思しきキャラクターも、当然出てくる。

なお太宰治という人は、読者が「きっと事実に違いない」と思い込むほどリアルな私小説風に仕立てながらその実フィクションを描くという、画期的な作風の発明をした作家だと評論家の長部日出雄氏は評している。

その意味では、実話の映画化ではないのだから遠慮なく脚色のしようがあったような気がするのだが、実際はどこか帰結点の定まらない、中途半端な印象を受ける。

それでも妙に心に引っかかるのは、主演・松たか子の魅力というほかない。彼女はすごい。原作のヒロインの印象とは違うものの、鑑賞者に暖かい感情を抱かせるキャラクターを作り上げている。たとえ粗末な着物を着ていても、笑っていても、泣いていてもかわいい。その真っ白なオーラに、こういうダメ主人公が耐え切れず逃げ出してしまう心情が、痛いほど伝わってくる。完璧な奥さんは、男にとって重荷以外のなにものでもない。

その逃亡先?である愛人役の広末涼子は、皮膚のしわまでわかるどアップで濡れ場を演じているが、これが意外なほど生々しい。激しく交わったかと思えば薬物のオーバードーズと、時節柄しゃれにならないリアルさである。

浅野忠信は、弱い男を魅力たっぷりに演じ、さすがの貫禄。妻に思いを寄せる男をストーキングする一連のシークエンスは、その際たるもので必見。原作にも登場する主人公の幼い長男は、実際の太宰家と同じく障害を持つ設定のはずだが、映画版はそれには触れず。それでも、男の苦悩の深さが説得力を失わぬ確かな役作りは、さすがというほかない。

とくに難解な場面もなく、太宰ワールド入門編としてもすんなり入れる映画版。仕事のプレッシャーに押しつぶされそうなアナタ、孤独感を感じている方などは、松たか子の魅力を堪能するつもりで気軽に鑑賞してみてはいかが。ただくれぐれも、オレにはあんな素敵な奥さんがいないからと欝にならないように。



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