『MW-ムウ-』20点(100点満点中)
M.W. 2009年7月4日(土)丸の内ルーブル他にて全国ロードショー 2009年/日本/カラー/129分/配給:ギャガ・コミュニケーションズpowered by ヒューマックスシネマ
原作:手塚治虫 監督:岩本仁志 脚本:大石哲也、木村春夫 出演:玉木宏 山田孝之 山本裕典 山下リオ

天国で原作者が泣いている

今年の夏は、邦画の話題作がたくさん登場する。『アマルフィ』や『ごくせん THE MOVIE』『蟹工船』等々、とても華やかだ。

だが、深い失望を味わうことで人間的な成長を遂げたい人にとっては『MW-ムウ-』が一番だ。たったの1800円で、これほどの後悔と、本作を選んでしまった自分への嘲笑気分を味わえる逸品はめったにない。

16年前の虐殺事件の生存者・結城美智雄(玉木宏)は、ある目的の元に凶悪犯罪を重ねていた。その友人、賀来裕太郎(山田孝之)は、神父という立場から彼の罪を嘆きながらも、同じ虐殺事件の生存者としてどうしても結城を告発できず、不本意ながら彼に協力するのだった。

手塚治虫による原作は、多くのタブーに挑んだ意欲作で、その待望の実写版として本作は大きな期待を寄せられている。

だが、登場人物の名前が微妙に変わっている件以上に、原作の要素は大きく変化した。とくに、稀代のストーリーテラー手塚治虫が物語中にたくさん撒き、私たちを楽しませてくれた「意外性の種」は、ことごとく刈り取られている。そんな本作の製作者たちの、神をも恐れぬ勇気には心より敬服する。おかげさまで、作品としての魅力も消え去った。

中でも目立つのが、主人公二人が同性愛者であるという設定を取っ払った点。これにより、賀来が神の教えに背いてまで、愛する結城を助ける際の葛藤の重さや、人間の業の深さといった人間ドラマが失われた。

映画版では、結城の暴走をなぜこの神父が本気で止めないのか、観客にはさっぱりわからない。二人の関係は、まるでわがままなイケメン番長と、チビの使い走り。賀来の役回りはボヤッキーそのものだ。男二人でヤッターマンを作る気か。

玉木宏はこの初めての悪役を5年前にオファーされ、快諾して挑んだそうだが、そうした役者の意気込みもこれでは空回り。これはスタッフが悪い。

一方、売り物のアクションシーンも、作り手の調査不足および鈍感さが目立つ。

たとえば好天時のヘリコプターからの攻撃を、見晴らしのいい平地で人間が走ってかわせるなどと、この映画の監督は本気で考えているのだろうか。そんなシーンを脚本家が書いてきたら、私なら即刻クビにする。

夜中の小学校並の警備レベルじゃないかと思うほど侵入楽チンな米軍基地にも興ざめだし、使われる手榴弾などの武器についてもしかりだ。

この映画のそれは、何秒たっても爆発せず、登場人物はまるでゴムまりのようにそれを投げる。一度、本物と同じ重さのものを投げさせてみるくらいの事を、なぜやってみないのか。その一手間をかけていたなら、こんなマヌケな場面作りはしないですんだろう。これは、予算の問題ではない。30年前の映画ならいざ知らず、あまりにも雑すぎる。

撮影が平均以上だからなんとか持っているものの、サスペンスアクションとしては、ハリウッドの3軍が片手間で作ったようなレベル。

『MW』をいま映画にするならば、手塚治虫が時代の限界で描けなかったタブーに、さらに踏み込むくらいのチャレンジ精神が必要だった。それが、あれだけセンセーショナルな作品を、相応のリスクを背負って発表した大作家にたいする礼儀というものだ。

それに加えて、原作中の荒っぽい部分は徹底的にリファインし、現代の観客の目に耐えうるリアリティを加え、2009年の映画作品として再生する以外に道はないはずではないか。

それを、76年の発表から30年以上も経っているのに、原作ですら描いていたタブーを避けまくり、よけいに子供じみた話にしてどうするのか。これでは日本のクリエイターの進歩のなさ、そして根性のなさに、天国で原作者が泣いている。



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