『コドモのコドモ』55点(100点満点中)
Child by Children 2008年9月27日(土)より、渋谷シネ・アミューズ 新宿武蔵野館ほか全国順次ロードショー 2008年/日本/カラー/122分/配給:ビターズ・エンド
監督:萩生田宏治 原作:さそうあきら 主題歌:奥田民生「SUNのSON」 出演:甘利はるな、麻生久美子、谷村美月

11歳の小学生が妊娠!

『コドモのコドモ』をめぐる騒動を見ていると、フィクションに対する許容範囲の低い人がこれほど多いのかと驚かされる。

見ていない作品に対し、「ローティーンの妊娠出産を映画にするとは何事だ」という一部の人々による主張は、いくらなんでも説得力に欠ける。見て本気にする人がいたら大変との親心はわからぬでもないが、ならば自分の娘息子に見せなければ良いだけの話。センセーショナルな問いかけで問題提起するやり方は、別に本作の専売特許ではなく、問われているのは受け取る側のリテラシーにすぎない。

小学5年生、11歳の持田春菜(甘利はるな)は、仲の良いヒロユキ(川村悠椰)と"くっつけっこ"なるオリジナル遊びをはじめた。のちに担任の八木先生(麻生久美子)の性教育授業を受け、春菜はそれが性行為で、自分はどうやら妊娠しているらしいと知る。だが周りの大人たちは、よもや小学生が妊娠など本気で考えてもいない。誰ひとり異変に気づかぬまま、やがて春菜のお腹は大きくなり……。

アメリカのジュノ(映画『JUNO』(07年)のヒロイン)は16歳で妊娠し、映画の大ヒットは多大な社会影響を与えた。触発されたある高校のクラスの女子ほとんどが同時妊娠したという、笑うに笑えないニュースもあった。ここから私たちは、「過激な映画はやめよう」ではなく、メディア・リテラシー教育をしっかりやろうという教訓を得ねばなるまい。

さて、日本の『コドモのコドモ』には、さそうあきらによるコミックの原作がある。荒削りながらなかなか良くできた作品だが、映画版では大事なテーマを削り落としている点に注意する必要がある。

たとえば原作にはモンスターペアレントや、フェミニスト教師の暴走によるクラスの崩壊など、いまどきの教育現場に見られる諸問題を批判するくだりがある。だが映画版は、撮影用の学校の手配などで教育委員会に恩を作ったせいか、そうした現場のダークサイドはすべてカットされた。

結果、「生命賛歌」というありきたりな一面のみを強調するほかなくなった。だが現状へのアンチテーゼという前提がなければ、偽善性が高まるばかり。このように本作最大の問題点は、テーマ面で片翼飛行を余儀なくされた(自業自得といえなくもないが)点にある。

また残念なのは、萩生田宏治監督がもう少し教育問題や、妊娠出産といった医学方面に詳しければだいぶ違っただろうということ。人には得手不得手があるので非難するつもりはないが、もったいないのは彼の得意技が発揮しにくい題材だったことだ。

教育問題については前述したとおりだが、肝心の妊娠出産についてもその真髄を描いているとはいいがたい。簡単にいうと、この映画の妊婦は妊婦に見えない。これは、甘利はるなが小学生だからという理由ではもちろんなく、医学面での演出不足による。

クライマックスについても、原作のほうがはるかに正確に描写している。ここで実写映画がマンガに負けているようではいけない。感動を伝えるための演出手法についてもしかり。原作のクラス委員長がメガネをかけた少女である事の重要性に、残念ながら萩生田監督は気づいていない。

同様に、重要なエピソードである運動会の場面を削ってしまったのもいただけない。

この時期の妊婦が全力疾走し、騎馬戦を行うのは相当危険で、だからこそ最大のサスペンス要素となっている。同時に、無知なる小学生が妊娠することの怖さに、改めて読者も気づかされるという仕組みだ。

実写なら映像的にも、ほぼ唯一動きのある見せ場となったはず。付け加えるなら、ここはクラスメートが一丸となる大事なイベントで、終盤への大事な伏線でもある。

私はこの件について、監督にお会いした際、直接聞いてみた。すると、運動会を学芸会に変更したのは、そこでの演目に意味を持たせたためだと回答してくださった。あえて静的なイベントにすることで、クライマックスを強調したい狙いもあったという。なるほど、それは確かに理解できるが、それでもやはり運動会のほうが良かったと私は思う。

そんなわけで萩生田監督は社会派でも医学派?でもないから、得意の人間ドラマ、子供たちの心の描写に力を注いだ。『神童』のような心に残る映画を作れる人材だからその力量に不足はないが、今回ばかりは子供たちに対するそうした真摯な態度が裏目に出た気がしてならない。

『イキガミ』のページにも書いたが、とっぴな設定を用いる場合はそれ以外に厳密なリアリティを持たせねばならない。

だが映画版『コドモのコドモ』の子供たちは、あまりに純真無垢な少年少女ばかりでインチキくさい。子供なんてものはもっと毒をもち、ときに残酷でクール。だからこそ愛しく、笑いも呼べる存在だ。おそらく萩生田宏治監督は誠実で、とても優しい目をもった監督だから、こういうデリケートな素材においてそういうことは出来なかった。

もっとえげつない性格の監督だったならば、ぬるま湯社会にキツい一撃を食らわせるための武器、コマとしてガキどもを使い、教育委員会がぎゃふんというような過激描写も連発させたろう。さすれば相当な作品になったろうと思うと、映画というものもなかなか難しいものである。



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