『シッコ』96点(100点満点中)
Sicko 2007年8月25日、シネマGAGA!他全国ロードショー 2007年/アメリカ映画/123分/提供・共同配給・ギャガ・コミュニケーションズ×博報堂DYメディアパートナーズpowered by ヒューマックスシネマ

今度は世の中を変えられるか?

マイケル・ムーア監督の最新ドキュメンタリー「シッコ」は、期待を上回る物凄い映画であった。

左翼活動家兼ドキュメンタリー作家として社会問題を追い続ける彼の今回のテーマは「アメリカの健康保険制度」。先進国の中で最悪といわれる、悪名高いかの国の制度について、まずはなぜひどいのか、実例を示すところから映画は始まる。

成熟した国民皆保険制度の恩恵を受けている日本人としては、到底信じられないような悲劇が何例も示され、「うわさには聞いていたがここまでひどいのか……」とショックを受ける。

しかもそうした悲劇は低所得層に多い「無保険者」に降りかかっているのではなく、「民間保険に入っていた(=高額な掛け金を払っていた)のに、土壇場で保険会社に難癖をつけられ支払いを拒否された人」のそれである。このショッキングな序盤で観客は、問題点は「保険制度を営利企業に任せる」という、発想そのものである事を理解する。

この先も怒涛の勢いでムーアの解説、追及が続く。彼はブッシュ落選を目的として作った前作『華氏911』の完成を大統領選に間に合わせるため、一時本作の製作を中断していたのだが、それ以前から長年追い続けてきた最重要問題はコチラというだけあり、その構成のわかりやすさ、面白さは段違い。一瞬たりとも目を離せないほどエンタテイメント性が高く、ほかでは絶対みられない彼ならではのドキュメンタリーを、十二分に堪能できる。

ムーアが本当にうまいなと思うのは、エピソードの選び方。彼の元に集まった膨大な体験談、ネタの中から、自らの描く絵図にハマるものだけを的確に抜き出している。それが人々に与える効果を正確に予測しつつ、無駄なく編集、構成する。突撃取材の過激さばかりが目立つが、彼の本当の凄みはこの構成力、脚本にあるといっても過言ではない。

本作でいえば、米国との対比としてフランスの制度を中心に扱うあたりが心憎い。映画の中で語られるその表向きの理由は、フランスの保険制度がWHOのランキングで一位だからとされる。

しかし私が思うに、「ジャイアニムズの権化たるアメリカ人(とくに支配階級のWASP)も、世界で唯一フランス人にだけは潜在的なコンプレックスを持っている」という心理をこそムーアは利用している。

そして映画のクライマックスは、911テロ救出作業時の英雄たち(有害粉塵のため障害が残ったが、政府からは見捨てられ、高額治療費の支払いにより困窮している)を連れ、キューバの米軍基地に出向く場面。ここで彼らは、無料で最新医療を受けている911の犯人たち、つまりテロリストと同じレベルの治療を受けさせてくれと頼むのだ。その後彼らは、キューバの医療制度の現場も取材する。

この落差ある展開には唸らされる。アメリカ人の観客にすれば、内心かなわないと思っているフランス人が作り上げた優れた制度を散々見せられたあと、長年敵国であった(見下すべき社会主義の後進国のはずの)キューバにさえ、自国の制度が劣っている事を見せ付けられるのだ。彼らが受けるインパクトの大きさたるや、想像に難くない。

このキューバでの場面は必見で、街角の薬局で起こるある出来事を見て、心動かされぬ人はいまい。映画を見て怒りと悔しさのあまり涙が出てくる体験はなかなか出来るものではない。

そう、『シッコ』はムーアらしいユーモアにあふれているが、その背後には証言者たちの猛烈な怒りを感じられる。そこがいいのだ。笑うべきシーンでもまったく笑えず、こちらも怒りの感情ばかりがふつふつと沸いてくる。

現政権批判一色であった『華氏911』と違い、この映画が扱っているような消費者問題は、右だの左だの思想とは無関係に見られるというのもいい。また、見ねばならない。

『シッコ』では他国の制度の問題点はあえて取り上げていないし、ムーア作品の常で、観客の思想を自らの思うほうへ誘導しようとする演出も多々見受けられる。おそらくそうした点を批判する人も、多数出てくることだろう。

だが、それがいったい何だというのだ。そんな事はなんのマイナスでもないし、この作品の価値を下げはしない。公的な国民皆保険制度を導入することは、米国の労働者にとって絶対に利益があることであり、反論の余地はないのだ。そしてムーアが目指すのはまさにそれで、たとえ多少の問題があろうと、まずはこういう他国並の制度を導入しようよ、という提案は全面的に支持できる。

『シッコ』のすばらしいところは、外国の制度を(あえて無条件に)礼賛してはいても、観客に「さっさと米国を捨てて移住したい」と思わせないように作ってあるところだ。「うちの国はこんなにひどい。でも頑張ってみんなで他国のいいところは取り入れて行こうよ」という、建設的かつ前向きな主張は、ムーアに愛国心があるからなせることで、だからこそこの映画は米国民から圧倒的な支持を得たのだ。

面白いし、泣けるし、勉強にもなる。マイケル・ムーアの最新作は、彼の最高傑作といってもいい優れたドキュメンタリーだった。医療格差を呼ぶことになるであろう混合診療解禁など、ちょっと目を離すとすぐにアメリカの後を追いたがる日本に住むものとしても、これは他人事ではない問題だ。

唯一気になるのは、ムーア自身の怒りがあまり伝わってこなかったような気がする点。本人が儲かっていてもはや問題の当事者ではなくなってしまったからなのか、あまりに映画作りが上手くなりすぎたためなのか、いずれにせよ一抹の不安を感じさせる部分ではあった。



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