『300<スリーハンドレッド>』90点(100点満点中)
300 2007年6月9日(土)より、サロンパス ルーブル丸の内他全国超拡大ロードショー !! 2006年/アメリカ/117分/配給:ワーナー・ブラザーズ映画

特攻隊の真髄を完璧に表現

石原都知事の『俺は、君のためにこそ死ににいく』に加え、日系アメリカ人監督リサ・モリモトの『TOKKO-特攻-』など、最近は特攻隊をテーマにした映画の製作が相次いでいる。だが皮肉なことに、カミカゼ特攻隊とはまったく無関係の『300<スリーハンドレッド>』ほど、その歴史的意義を表現した映画はない。

紀元前480年、覇権国家ペルシア帝国はギリシャのいち都市国家スパルタを服従させるべく、使いを出した。しかし、スパルタのレオニダス王(ジェラルド・バトラー)はこれを拒否。迫りくるペルシアの大軍勢100万を、手勢わずか300で迎え撃つ覚悟を決める。

「シン・シティ」のフランク・ミラーによる劇画が原作というだけあり、一般的な歴史ものとはまったく異なる。徹底したエンタテイメント志向の作品で、歴史考証はあくまで二の次三の次。面白さのために躊躇なく史実のほうを変えている。

だが、中途半端に近い過去じゃないから(なにせ2500年も前だ)、こうした大胆なアレンジも意外にすんなり受け入れられる。なによりこの映画、映像も役者もこの上なく美しい。たとえば剣と槍と弓矢による戦闘シーンなど、首は飛ぶわ血は出るわの残酷スプラッターそのものだが、意外にも気持ち悪さは感じない。ほとんど全場面に加えられたエフェクトと、優れたデザインによる美術のおかげか、まるで一流の絵画を見ているようだ。

ザック・スナイダー監督はなかなかセンスがいいようで、大軍勢同士の戦いを描く際にやりがちな間違いを上手に避けている。

たとえば、大軍同士の激突を一画面に入れこむ構図に頼っていない(人の目が同時に認識できる数はそれほど多くないので、こうした場面はスクリーンで見るとただゴチャゴチャしているようにしか見えず、意外に迫力を感じない)。

そしてもうひとつは、常に被写体から適度な距離を保っているということだ(動いている被写体に寄ってさらにカメラを動かしてしまうと、スピード感は出るが何をしているかがわからない)。

その代わり彼がやったのは、(100万vs.300 を描くのではなく)1vs.1×300 という演出であった。あくまで一人対一人の戦いを、適度な距離を持って写すことで、役者の表情をはっきりと捉える。さらにスローモーションを多用することで、一瞬の立会いにどんな高度な技が繰り出されているのかを観客にしっかりと見せた。

これにより、観客はスパルタの英雄一人一人の顔をしっかりと認識することが出来、同時に深い感情移入を行うことが出来る。360度を常に意識させるカメラワークにより、まるで自分が300人の仲間と共に戦っている疑似体験をさせてくれるというわけだ。

外国映画は登場人物の名前も顔も覚えないうちに終わってしまう、という人も少なくないだろうが、『300』に関しては、その心配は無用だ。

こうした戦闘シークエンスは、まるでバレエダンサーによる舞踏のごとき人体の美を感じさせる。スパルタ兵は本当は史実では重装歩兵なのだが、あえて上半身裸の軽装にデザインしたアイデアも、私は全面的に支持したい。

明らかに勝ち目のない戦いになぜスパルタの男たちは出て行くのか。その理由も説得力を持って描いてある。ラストシーンでそれはわかるようになっている。この300人の決死隊の意思は、まさに旧日本軍の特攻隊そのものだ。

「自由のために悪を蹴散らす」とか、そういうアメリカ人好みの単純な味付けの方ははっきり言ってどうでもいい。私は「死を前提にした(一見理不尽な)作戦の論理性」をきっちり描いた点をこそ高く評価する。

とはいえ、このスパルタ兵たちの強さといったらない。まるで座頭市が300人いるような圧倒的な強さで、しかも全員が完璧な隊列と連携によるチームワークで戦う。士気も練度もすこぶる高く、圧倒的な大軍を前にしてまったくひるまず、真正面から蹴散らしていく。見ていてとにかく熱くなれる。

これに対し完全な悪役であるペルシア軍は、身長数メートルはあろうかというドーピング人間や不死身の忍者軍団など、ほとんどファンタジーのような奇手、新兵器を繰り出して対抗する。

私はこのすこぶる面白い歴史アクションを、若い男性におすすめしたい。男たるもの、どんな逆境であっても肉体ひとつで道を切り開かねばならない。そんな情熱にあふれた、とにかく熱い一本だ。なお、お連れあいには、腹筋フェチの女性などが最適である。



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