『明日、君がいない』97点(100点満点中)
2:37 2007年4月21日、渋谷アミューズCQNにてロードショー 2006年/オーストラリア/99min./配給:シネカノン

ほかのどんな巨匠にも作れない映画を目指した点が立派だ

この職業をやっていると、毎日各社から膨大な数の試写状が届く。ためしに今手元にあるのを数えてみたら40枚以上あった。非常に残念だが、物理的な時間不足によりそのすべてを見ることは出来ない。やむなくスケジュールに合う中から、何か気になる作品を選ぶことになる。

私が『明日、君がいない』の試写会に行こうと思い立った最大の理由は、この映画の監督ムラーリ・K・タルリは、なんとこの映画を19歳のときに作り始めたという一点にあった。しかも、カンヌ国際映画祭で好評だったという。アカデミー賞よりカンヌの評価に共感する事が多い私としては、どうしてもこの作品を見ておきたかった。

舞台は現代のとある高校。ちなみに本作の原題は「2:37」というもので、これはこの時刻に何かが起こるという意味。そしてそれは、どうやらクラスの誰かが校内で自殺するのだと、冒頭にわかる。そこで一気に時間は戻り、その時刻までの1日をカメラは淡々と追っていくのだ。

登場するのは主に6人の若者で、これがまたどいつもこいつも問題を抱えている連中ばかり。高額所得者の親を持つ兄妹は、しかし教育面でのプレッシャーに押しつぶされ気味。スポーツ万能でモテる少年は、一見勝ち組街道まっしぐらに見えるが、他人を平気で蹴落とすいじめっ子。

ちなみにアメリカなど白人文化圏の映画にこの手のスポーツマン(Jock という。女性の場合はチアリーダーがそれにあたる)が出てくる場合、それは「その学校で一番イケてるグループ」だと思って間違いない。いうまでも無いがその逆は、日本同様「オタク」(Nerd、Geek)である。その賛否はどうあれ、映画の中ではそうした記号としてこれらの「属性」がよく使われる事を知っておくとよいだろう。

さて、そのほかもゲイだったり軽度の障害にコンプレックスを持っていたりと、いつ自殺してもおかしくないような危なげなティーンが次々と登場する。そして、当初明らかになるそうした悩み、問題点とは別の隠された一面をもつ人物も中にはいる。

ひとつのシークエンスは必ずこのうち誰かの目線で進行するが、ひょんな事から(たとえば廊下で別の誰かとすれ違うなど)突然スイッチし、別の人物のそれになったりする。ときには同時に時間軸もわずかにずれ、過去に戻ったりするのでめまぐるしい。しかもその合間には、彼らをインタビューした風の映像まで入る。

こうしたスピーディーな展開と、「いったい自殺するのは誰なのか」「どんな原因で、どんな方法で死ぬのか」という、一種の謎解きめいた興味によって緊張感は途切れることが無い。無意識のうち、すべてのシーンにそのヒントを探してしまう。みていてとにかく"面白い"。

ただ、こうした技法面はまだまだ荒っぽくもあり、しょせんは新人監督といえなくもない。しかし、この映画にはもうひとつ恐るべき点がある。それは、この映画の語るテーマについてだ。

そもそもムラーリ・K・タルリ監督がなぜこの話を考えたかといえば、長年の女友達が突然自殺したことにショックを受けたことに端を発する。その後、自身も自殺を決意するにいたったその経験を、彼は完璧にこの一本に叩き込んだ。私が最も高く評価するのはその点である。

映画づくりに詳しい19歳はいくらでもいるだろうが、そのような体験をした19歳はほとんどいない。いや、大人まで見渡したっていまい。彼は19歳ならではの感性などという、どこにでもありふれたつまらぬものではなく、ひとりの人間として得た"親友の自殺"という貴重な実体験をこの映画で表現したのだ。

だからこそ『明日、君がいない』は他 に類を見ないものすごい映画になった。ムラーリ・K・タルリは、自身の短い人生経験の中の何を描けば世界で勝負できるか、冷静に判断できる男だった。なんといってもこの若き監督が影響を受けたと思われる名匠ガス・ヴァン・サントでさえ、この一点では絶対に彼にかなわないのだから。

『明日、君がいない』には、体験者でなければわからないある感情を、未体験者である私たちに、誰も思いつかないような方法で疑似体験させてくれる。そこから感じるリアリティたるや、まさしく未知たるものであった。一本の映画でこれほど心を揺り動かされることなどそうそうない。この映画を見終わったとき私たちが感じるあらゆる感情は、おそらく監督が親友を亡くしたときに感じたそれに近いものがあるのだろう。彼がやりたかったのはそういう事かと気づいたとき、この強烈な結末や理不尽に残ったいくつかの思いにすべて納得がいく。

映画作りの面においては、低予算なのにそれを極力みせないように努力したその戦略も高く評価したい。背伸びはせず、勝手知ったる学校を舞台にし、役者も自分の足で見つけてきた(劇中、足を引きずって歩く少年は、実際に足に障害がある子を監督が町で見かけてスカウトしたそうだ)。単調になりがちな手持ち撮影は、先述した編集のテクニックにより観客を飽きさせないよう工夫した。そして何より自分にしか決して書けない脚本、これを最大の武器にして世界の映画界に勝負をかけた。すなわち、予算100億円の大作とだって真っ向勝負してやろうというのだ。

じつにあっぱれ、これぞ新進気鋭の映画作家が取るべき理想の姿ではないか。低予算というと、ゆるいナンセンスギャグやチープ感を売りにするしか脳の無い日本の一部の映画監督らとは、志の高さが1000倍は違う。私はムラーリ・K・タルリ監督のような男をこそ、全面的に称えたい。



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