『ガイサンシー(蓋山西)とその姉妹たち』35点(100点満点中)
2007年3月31日より大阪シネ・ヌーヴォにてロードショー 2007年/日本/カラー/80分/配給:シグロ
元慰安婦の証言を垂れ流すだけじゃ単なるプロパガンダだ
徴用時の強制性についての安倍晋三首相の不用意な発言により、いま"従軍"慰安婦問題がアメリカの一部で大きく騒がれている。彼の発言内容自体を擁護する声も保守層には根強くあるが、ああいう事を言えばてぐすね引いて叩きネタを待っているマスコミにより、当初の意図とは反した形で広められるのは当然である。そんな予測もできないのでは、政治家として脇が甘いと言わざるを得まい。
そんな折、あまりにもグッドタイミングで公開されるのがこの"従軍"慰安婦をテーマにしたドキュメンタリー「ガイサンシーとその姉妹たち」だ。ちなみに従軍慰安婦(性奴隷も)という言葉は、反体制的な人々による一種のレッテル張り、アジビラに書くための造語のようなもので、厳密には使うべきではない言葉だが、映画の中で使用されているのであえて記述している。
ガイサンシーとは、中国の山西省で一番の美人という意味で、戦中実在したある女性のこと。その美貌は当時駐留していた旧日本軍の間にも伝わっていたほどだという。ところがそれが彼女にとって、筆舌に尽くしがたい悲劇を呼び込むこととなった。映画は、日本軍に強制徴用され、いわゆる慰安婦としてあまりにもひどい生涯を送った彼女を訪ねるところから始まる。
とはいえ、当の女性はすでに死亡しているということで、のっけから肩透かし。やむなく当時の彼女を知る現地の人々へのインタビューが始まる。
典型的な貧しい中国の山村であるここでは、当時のまま残る建物も多く、日本軍による蹂躙の傷跡がそこかしこに残っている。人々の記憶も鮮明で、いかに日本軍たちが血も涙もない蛮行を働いたか、そしてガイサンシーがいかに気丈に彼らに立ち向かい、他の若い娘たちの盾となって兵士たちの欲望を一手に引き受けていたかが涙ながらに語られる。彼女に敬意を表し、村の元慰安婦たちは自らを「蓋山西の姉妹」と呼ぶ。これがタイトルの由来だ。
彼女と同僚の慰安婦だったという老女が、最初に日本兵によってレイプされた建物に赴き、あの場所でやられたと指差すくだりなどじつに生々しい。
彼女らの証言の信憑性については、元日本兵数名へのインタビューが補強材料として提示される。部隊長の名前などが一致し、村の人々の記憶が正しかったことがここでわかる。
班忠義監督はピースウィンズ・ジャパンという、主に紛争地支援を業務とするNGOの元スタッフで、映画は冷静な態度で進行するものの、根底に流れる思想が大きく偏っていることはすぐにわかる。だから、これほど政治的カードとして長年利用されてきたテーマを扱っていながら、元慰安婦や村の人々の証言がどこまで正しいのか、十分な検証をしていない(基本的に正しいものとして扱っている)。
しかし、元慰安婦という人の中には、かなりいいかげんで、恣意的な証言をする人もいる。そんなことをする理由(動機)も容易に予測できる。だからこそ、無条件で信じるのは(心情的には理解できるものの)学問的に正しい態度とはいえない。
出てくる元日本兵にしても、よくみると「侵略の先兵は東洋鬼だった」などという自作の模造紙の前で話していたりして、その素性がうかがい知れる(東洋鬼とは日本軍を揶揄した言い方で、相当左よりな自虐史観主義者でなければまず使わない用語)。
実際のところ、戦中に慰安婦として体を売っていた女性の中には家が何軒も建つほどの報酬をもらっていた人もいる。とはいえ、この辺鄙な山村に駐屯していたような小規模な部隊のところには、おそらくそうした正式な慰安所などはなかったろう。そんな中で、性犯罪が起きたと主張するのならば理解はできる。もしこの映画が、そうした個別の「戦争中の犯罪行為」を告発するドキュメンタリーだったならそれなりに意味もあっただろう。
しかし、信憑性の定かでない証言を集め、あたかもすべての日本軍が鬼のようなレイプ魔だったと印象付けるような内容では、高い評価を与えることはできない。むしろ、一種のプロパガンダだといわれても仕方がない。