『DEATH NOTE デスノート 前編』25点(100点満点中)
監督が、原作の魅力をイマイチ理解していない?!
大場つぐみ&小畑健による原作漫画『DEATH NOTE』は、週刊少年ジャンプの連載ものとしてはかなり異色の内容だったが、その完成度の高さにより、多大な人気を博した作品だ。私自身にとっても、ここ数年読んだ漫画作品のなかで、ナンバーワンに挙げたいほどの大傑作である。その実写映画化である本作は、前後編が撮影され、立て続けに公開(後編は10月)されるという、異例の事態となった。製作費も20億円と堂々たるもので、ファンの間ではいやがうえにも期待が高まっていた。
主人公の学生、夜神月(やがみ らいと、と読む。藤原竜也が演じる)は法曹界を目指していたが、法の限界を知り挫折感を味わっていた。そのとき、偶然拾った黒いノートが彼の運命を変える。それは死神が使うデスノートというもので、名前を書かれた人間は必ず死ぬ。ライトは、世直しのため、次々と世界各国の犯罪者の名前を書き込むが、やがて犯罪者の大量死を不審に思った世界中の警察やFBIが動き出す。そしてインターポール(国際刑事警察機構)は、天才的な頭脳を持つ探偵、通称"L"を、捜査アドバイザーとして警察庁に送り込む。
ここから、二人の天才の騙しあい、壮絶な頭脳戦が開始される。Lの捜査をかいくぐって、ライトは犯罪者殺しを続けることができるのか、そこが(原作の)最大の見所である。
映画版の前編は、コミックス第二巻あたりまでのお話(※)なので、比較的じっくりと話は進む。全5巻を2時間に無理やりまとめた『デビルマン』や、暴走バスのような展開をみせる『ダ・ヴィンチ・コード』のように、むちゃくちゃなテンポで進むことはなく、この点は安心した。※2006/06/13…順序は多少前後しますが三巻の内容も多分に含まれております
映画化にあたって冒頭のストーリーは変更されているが、これも問題はあるまい。むしろ、出だしの9分半の緊迫感はなかなかのもので、短い時間にこの世界のルールの多くを上手に説明しており、感心した。オールCGによる死神リュークの見た目も違和感がなく、これはかなりイケるぞと、大いに期待は高まった。
しかし、この映画の美点はそこまでだった。映画版『DEATH NOTE デスノート 前編』は、徐々にほころびを見せ始め、終わってみれば結局、ダメ映画の仲間入り、である。
なぜダメなのか。その一番の原因として、キャラクターをまるで描けていない点があげられる。この監督(金子修介)は、『デスノート』の魅力を十分理解できぬまま、実写化を行った可能性すらあるのではいかと感じさせる。
じつは私はこれを観る前、予告編やポスターを見た段階では、藤原竜也のライトも、松山ケンイチのLも、瀬戸朝香の南空ナオミや藤村俊二のワタリ、鹿賀丈史の夜神総一郎にいたるまで、みな原作のイメージに忠実だなと感心していた。
だが、それはあくまで見た目だけだった。映画を見る限り、肝心の登場人物の中身について、監督は大きく誤解しているような気がしてならない。
たとえば一番重要な夜神月だが、この作品の魅力はカリスマあふれるこの天才少年の性格に尽きると言っても過言ではない。高校全国模試一位の頭脳を持ちながら、性格は冷静沈着かつ大胆、そして独善的。
目的のためにはあらゆる煩悩を振り払い、迷いなく突き進むことのできる姿が、読者の憧れとなっている。彼は金にも女にも決して惑わされず、むしろ積極的に利用して目的を達成する。そのある種の冷酷さ、殺人の罪悪感にもつぶされない強靭な神経、追い込まれても決して揺らがない自信、確固たる独自の価値観こそが、このキャラクターの魅力なのだ。
ところが映画版のライトは、原作を読んでいないものには、ただ行き当たりばったりで計画性のない無差別犯罪者殺しをしている、頭の悪いガキにしか見えない。オリジナルキャラクターのガールフレンドと、仲良くチュッチュしている普通の学生に見えてしまうのだ。この作品の主人公を、平凡な、隣のお兄ちゃん的キャラにするなんて、いくらなんでもひどすぎる。
なぜこんなことになってしまったかというと、監督が主人公の内面、心理を一切描いていないからである。たとえば原作は、台詞の多くが主人公たちの独白であり、嫌というほど彼らの内面、心理状態を読者に伝えているのだが、そのおかげで、表面上は意味不明な彼らの行為が、読者にだけは説得力を伴った凄みある戦いとして、バッチリ伝わるのだ。
ところが、それを映画ではまったくやらないので、彼らが何を考えてあんな事をしているのかが、観客に伝わらない。つまり、理由を描かず、結果(=彼らの行動)だけを描写するからダメなのだ。行動だけ見れば、Lにしろライトにしろ、やっていることは非現実的でバカバカしいものなのだ。
これでは、何も知らない観客には、子供同士でなに遊んでるの、ってな具合にしか思えまい。これじゃ、周りで見ている警察もただのおばかさん、だ。なぜ二人があんな事をするのか、そこを見せなくては意味がない。たとえばポテトチップスの袋のトリックだって、なぜライトが、わざわざリスクを犯して、あんな事をやったのかの説明が不足しているから、観客は感心もしないし、大して驚きもしない。
Lについても、無邪気な外見とガチガチの論理的思考のギャップが面白い男なのに、なんだか天才肌の変人風に描かれている。どういう論拠、思考順序でその謎を解いたのかという、一番面白いところを強調しないから、なんだか直感でポンポン正解を言い当てているように見える。これでは、Lの恐るべき頭の良さは伝わらないし、観客にはご都合主義にしか見えないだろう。
さらに、死神リュークの声も似合っていないし、性格もマジメで利口すぎる。本当は彼にはもっと茶目っ気が必要だし、死神をまったく恐れないライトとのユニークなかけあいこそが、この物語の面白いところなのだが。
南空ナオミなどは、ほとんど性格破綻者であり、コミック版の魅力など見る影もない。彼女とライトの対決は、原作でも一二を争うほどの名場面だったのに、大幅に変更された映画版のそれでは、場内から失笑が巻き起こった。このとき、原作ファンだった私はとても悲しくなった。
それにしても、金子監督にはセンスがない。ちなみにこの場合のセンスとは、「漫画を実写映画にする際、なにをしたらリアリティが崩壊してしまうか」を判断する感覚のこと。セリフや行動、設定、ストーリー……それぞれの段階に潜む"リアリティ崩壊地雷"を、慎重に避けてとおらなければ、マンガの映画化は成功しない。それは、理屈ではなくほとんど直感、センスの問題だ。この監督の場合、『あずみ2』でそのセンスがない事がはっきりしているのだから、そもそも人選の段階で間違っている。
映画版『デスノート』は、登場人物がしゃべるたび、行動するたびにどんどんリアリティが失われていき、際限なく子供じみていく。見ている普通のお客さんは、あまりのくだらなさに引く一方であろう。
本来この原作は、CG演出が得意とかではなく、人間ドラマ、そしてサスペンスを描ける監督に任せるべきだったのだ。
ただし、ラストのどんでん返しについては、少しは評価したいところ。オリジナルキャラの必要性と、ライトの真の性格を明らかにさせた、映画版にとって、意義あるものであるというのがよくわかる。ただ残念なことに、ここでも、監督は大きなミスを犯している。
それは、ペンに関するミスディレクションのショットで、これを見て私は、この監督が、ミステリというものを全くわかっていないと確信した。なぜならあれは完全にアンフェアで、本来あの場面では、胸にでも挿したペンを取りたそうに、ライトの手がわずかに動く程度にとどめなければならない。あの局面であのような行動をライトが取る必然性はないから、ミステリという視点から見れば、あの場面は"卑怯"と評価されてしまう。
そんなわけで、残念な結果に終わってしまった本作だが、それでも後編がまだ残っている。その出来次第では、前半のマイナスポイントが大きく覆される可能性だって、ないわけじゃない。映画版ならではの驚愕の結末が待っているそうだから、それに期待したい。原作とは違った面白さ、驚きを与えてくれるとよいのだが。