『バッシング』70点(100点満点中)

弱者の立場を想像してあげて、と語りかける

イラク日本人人質事件。インターネットを利用する皆さんにとっては、特に記憶に新しい事件ではないだろうか。ジャーナリスト志望の少年、市民ボランティアの女性、フリーカメラマンの男性3人が戦時中のイラクで拉致監禁され、犯行グループが自衛隊の撤退などを日本政府に要求した事件のことだ。

このとき日本では、とくにインターネット上で激しい被害者バッシングが巻き起こり、自己責任論なるものも噴出、やがてその論調で報道するマスコミまでも現れた。映画『バッシング』は、この一連の事件をヒントに、おそらく被害者の一人、ボランティア活動のためイラクに入国した女性をモデルにして作られた劇映画である。

北海道の海辺の町で暮らす高井有子(占部房子)は、中東でボランティア活動中、武装グループに拉致監禁され、その後無事帰国して以来、激しいバッシングを受けていた。仕事はクビになり、匿名の嫌がらせ電話はひっきりなしにかかってくる。それらは唯一の味方である父親の職場にまでおよび、彼女とその家族は追い詰められていくのだった。

『バッシング』は低予算だが、優れた問題提起を行う映画作品である。立場としては、ヒロインに100%肩入れしているわけではないが、どちらかというと、彼女をやや擁護している印象を受ける。

この映画に出てくる街は、どんよりとしたグレーの世界で、住民はみなそろって嫌なやつだ。口を開かぬ者でさえ、無言でヒロインを軽蔑している。ヒロインに味方はおらず、バッシングの程度もハンパではない。映画はリアリティを無視して、とにかく極端なまでに被害者たたきを強調する。

一方、主人公の女も善人として描かれているわけではない。彼女は周りの空気をまったく読めず、社会に適合する能力に欠けた人間であり、社交性もない。決して、「あくどい大衆にいじめられる、いたいけな女性」というわけではない。

では『バッシング』は何を描いているのかというと、それは「弱者からみた日本の姿」である。ヒロインは、日本社会に居場所を見つけられなかった人間たちの象徴(ニートや引きこもり、失業者、野宿者、うつ病の人等々…)であり、その立場から見ると、この国はこんなに居づらいもの、というわけなのだ。そして、そうでない(弱者ではない)観客にそれを見せ、何を思うか問うているのである。

この映画は、あの事件のとき被害者たちに"3バカ"、"自作自演"、"ブサヨ"などとレッテルを張り、バッシングした人々こそ、観るべき作品である。あのとき被害者の目から、世界はどう見えていたか。それを知ることは、決して無駄なことではない。被害者と主義主張が違うからといって、必要以上に感情的な批判をしていなかったか。それは、常に自問せねばならない問題だと私は考えている。



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