『ダ・ヴィンチ・コード』20点(100点満点中)
開始後30分で、ほとんどの人はついていけなくなる
原作本『ダ・ヴィンチ・コード』は、全世界で3800万部も売れたベストセラーだ。この映画化にあたっては、カンヌ映画祭のオープニングまで、世界中どこでもマスコミ向けの試写会すら行わず、徹底した秘密主義で煽りまくり、話題性を盛り上げた。
ストーリーは意外に単純で、ある夜、ルーブル美術館の一室で殺された館長が残したダイイングメッセージを、主人公のハーヴァード大学教授(トム・ハンクス)と、フランス当局の暗号専門家(オドレイ・トトゥ)が、協力して解読するというもの。
やがてこのダイイングメッセージ(死の間際に被害者が残すヒント)は、どうやらキリスト教世界で最も重要な聖遺物(キリストの遺品や関連アイテム)である、"聖杯"のありかを示しているとわかる。しかし彼らは、館長殺害犯の容疑をかけるフランス警察と、聖杯を狙うカトリックの急進派閥オプス・デイの暗殺者に追われる身となってしまう。
ヨーロッパを駆け巡る2人の逃亡劇と、館長が残した暗号および聖杯伝説の謎解き、そして"導師"と呼ばれる謎の男の正体の3つが、この話の大まかな見所になる。
さて、早速で申し訳ないが、映画『ダ・ヴィンチ・コード』は、まぎれもなく失敗作だ。もはや、ラジー賞の独占は間違いない。
なぜ失敗作かというと、上記であげた3つの魅力を、ひとつも再現できていないからだ。たとえば、物語を省略せずに、ご丁寧に全部トレースしているものだから、上映時間が150分もあってもまったく足りず、猛烈なテンポで先へ先へと行ってしまう。はい次、これ見たらハイ次、次はこれ見てその次はこっち、ってな具合である。観客にはドラマの余韻を味わう時間も、新説をかみ締める時間もまったく用意されていない。
まるでアクセル全開で突っ走る暴走バスのような映画で、ひとつカーブを曲がるたびに、お客さんは次々と振り落とされていく。開始30分の時点で車内になんとか残っているのは、原作をしっかり読んで予習してきた人と、元々キリスト教や聖書、秘密結社といった分野に強い人だけだ。
しかし、そんな彼らもバスのスピードが速すぎて、暗殺者シラスと神父の愛情とか、ヒロインのソフィーの暗い過去、そしてトラウマから立ち直る姿、被害者ソニエールの執念や、研究者ティービングの情熱といった、肝心の"景色"を楽しむ余裕はないだろう。
また、ほとんどの場面を省略していないくせに、シラスが霧の中で祈る、この物語の中で最も感動的かつ美しいシーンをカットしているのは疑問が残る。これではシラス役、ポール・ベタニーの好演も台無しだ。
もともとこの原作は、実在の地名などを使って、トンデモ学説をそれっぽく仕上げた娯楽ミステリ。本の最初に「この小説における芸術作品、建築物、文書、秘密儀式に関する記述は、すべて事実に基づいている」なんて大仰な但し書きをつけて、読者の気分を盛り上げるあたりも、トンデモ系エンタテイメントの常套手段である。
ところが、これまでその種の本、学説を見たことがない一般読者層にとっては、これが新鮮だった。さらに、ヴァチカン方面のえらい人が、よせばいいのに真っ正直に批判コメントなんぞを出したものだから、よけい話題に火がついたというわけだ。きっと作者は「してやったり」の思いであろう。
そんなわけで、『ダ・ヴィンチ・コード』の良い所は、「トンデモ説をホントっぽく演出した」点だったのだが、映画版になったら、すっかりまた元のトンデモに戻ってしまった。要するに、この映画を作った人には、嘘をホントっぽく演出するという能力が著しく欠けているというわけだ。高等教育を受けたはずの登場人物たちが、見るからにアホな学説をサクサク受け入れていく姿は、滑稽そのものだ。カンヌで失笑が起きていたというのも、さもありなんである。
また、日本語字幕版についてもいっておくと、「ひとつの言葉に幾つもの意味をもたせる」という、この物語の暗号の持つ最大の特徴を表現できていない。このため、魅力のひとつだった、暗号解読時の気持ちよさが大幅に失われている。
せっかくロケの許可が出たルーブル美術館や名画も、撮影にほとんど生かせておらず、もったいない限り。
『ダ・ヴィンチ・コード』は、日本でも間違いなく年間最大級の超話題作だが、観客の満足度の低さも、恐らく年間最大級になることだろう。試写後、エンドロールの終了を待たず、半数以上のマスコミ関係者が席を立ってしまった事実がそれを物語っている気がする。
とくに、原作を読んでいない者や、キリスト教の陰謀説、秘密結社その他に興味がない人にとっては、かなりキツい1本である。お気をつけのほどを。