『マッドマックス:フュリオサ』75点(100点満点中)
FURIOSA: A MAD MAX SAGA 24年オーストラリア/アメリカ 148分 2024/05/31公開 ワーナー・ブラザース映画 PG12 監督:ジョージ・ミラー 出演:アニャ・テイラー=ジョイ クリス・ヘムズワース アリーラ・ブラウン
≪『怒りのデス・ロード』から一転、スカッと復讐劇、ではない≫
ジョージ・ミラー監督による『マッド・マックス』シリーズの30年ぶりの復活となった前作『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(17年)は、デジタル時代にガチスタントとアナログスペクタクル、電車道の単純ストーリーによる一点突破型エンタメ映画として、世界中で大ヒットとなった。
その実質的な主人公、隻腕の女戦士フュリオサの若き日の15年間を描いたのがこの最新作『マッドマックス:フュリオサ』。シャーリーズ・セロンからアニャ・テイラー=ジョイに演者を変更し、同じ世界観、ほぼ同じコンセプトのアクションドラマとして登場した。
核戦争による文明崩壊から45年。フュリオサ(アニャ・テイラー=ジョイ)は、暴走バイク集団のリーダー、ディメンタス(クリス・ヘムズワース)に囲われ生きながらえていた。幼き頃に誘拐され母親を殺された彼女は脱出の機をうかがっていたが、彼らが貴重な水資源を握る権力者イモータン・ジョーと出会い、対立するのを見てついにその時が来たと悟る。
本作は日本公開に先駆け、欧米や韓国、台湾などアジア各国で封切られたが、全世界興収で一位と世界的ムーブメントになっている。
それもこれも『怒りのデス・ロード』があまりに面白すぎた(超映画批評では95点)からなのだが、実は『フュリオサ』は、映像や世界観はほぼ同一の質感になっているものの、作品のテーマは少々異なる。
たとえばこれまでのシリーズは、過酷な終末世界の中でもどこかノーテンキさを感じさせるものがあった。火を噴くギタリストを車に据え付けていたりとか、搾乳システムとか、独特のバカバカしさが残酷さをやわらげてくれる、そんなところがあった。
シリーズ2作目にインスパイアされた漫画「北斗の拳」が、今ではギャグマンガにカテゴライズされがちなのも、もともとがそういう世界観と演出だったからだろう。
だが、本作にそのような遊び心はほとんどない。そんな余裕はない、という切羽詰まった印象すら受ける。
むろんこの最新作も、話はシンプルで、しいたげられた女主人公が復讐を遂げる、本筋はただそれだけだ。付随するアクションは『怒りのデス・ロード』同様で、実際に女優が運転していたり、命がけのスタントをやっていたりとコンセプトも同様。新鮮味、そして物量において前作よりは劣るものの出来は良い。
とくにフュリオサの母親を演じるチャーリー・フレイザーや、タイトルロールのアニャ・テイラー=ジョイら「女たち」の格好良さは前作以上。力では勝てなくとも、スピードと遠距離狙撃でヒャッハーたちに対抗する、非均衡バトルが心地よい。
さて、それでもこの映画は、復讐劇のスッキリ感とは程遠いのである。
象徴的なのは、クリス・ヘムズワース演じる親の仇との対決シーン。ここでミラー監督は、なぜか意図的にカタルシスを感じないように演出しているのである。
と同時に、この最終局面における禅問答みたいなやりとりこそが、ジョージ・ミラー監督がどうしてもやらざるを得なかった、2024年のマッドマックスとしての回答なのであろう。
思えば冷戦時代特有の、核による世界滅亡の恐怖を背景にしたのがこのシリーズであった。だから冷戦が終わればとたんにこの世界観は陳腐化し、30年間も復活できないほどであった。
ところがこうして新作が人気になった。だが奇しくもこの2024年は、冷戦期以来、人類がもっともリアルに「核戦争の恐怖」を感じている国際情勢となっている。
ロシアやイスラエルは実際の紛争相手に対して「あんまりオイタすると核落とすぞゴルァ」と脅しをかけ、(イスラエルの)後ろ盾のアメリカでさえドン引きしてなだめる始末である。
このような時代には、さすがのミラー監督もノーテンキさは封印し、このようなシリアスなクライマックスにするほかなかったというわけだ。
見終わった後は、おそらく皆さんの多くが「あの最後の禅問答は何だったのだ」「解説モトム」とTikTokのコメント欄みたいな状況になるはずだから、先回りしてここにヒントを書いておこう。痒い所に手が届く、日本で一番親切な批評。それが超映画批評である。
さて、この映画でキーマンになるのはクリス・ヘムズワース演じるディメンタス将軍である。なので彼の動向、台詞から目を離してはいけない。すると作中に何度か「汚れた命」というフレーズが何度か出てくる。このキーワードが非常に重要である。
この映画の意味不明瞭な最終盤のやりとりを理解するには、上記二つが必要要素となる。
さらに言ってしまえばこの映画は、女ヒーローフュリオサ、そして見ている観客のあなたを、なんと「汚れた命」側に引き込もうとしているのである。
そしておそらくあなたは、知らぬうちにそのようなダークサイドに自分の心が染まっていることを、ディメンタスの言葉で知ることになる。これは非常にショッキングな映画体験になる。
混乱して打つ手を失ったフュリオサが、最終盤に将軍の「あるもの」を取ろうとする。あなたも内心、それをやれと思ったはずだ。それがどれほど恐ろしい事を意味するのか。気づかせようというのがこの映画最大の肝である。
そして映画が終わった後、皆さんは考えることになる。これはまさに今、ロシアやウクライナ、イスラエルやパレスチナで危機に直面する人間たちの思考と同じなのではないか、と。
このような言及をせざるを得なかったミラー監督の心中を察すると複雑な気持ちになるが、これだけ大ヒットすることが確実な映画を世に送り出す立場として、言わずにはいられなかったのだろう。まさに責任感ある大人の態度であり、映画作家だなと改めて思わされる。
むろん、アクションシーンでスッキリすることだけを目的に行っても、前作ほどではないが楽しめるとは思う。だがどうせなら、ここまで見つくして、味わい尽くしてほしいというのが、知性溢れる当サイト読者のみなさんへの、私からのアドバイスだ。