『オッペンハイマー』80点(100点満点中)
OPPENHEIMER 23年アメリカ 180分 2024/03/29公開 配給:ビターズ・エンド ユニバーサル映画 R15+ 監督:クリストファー・ノーラン 出演:キリアン・マーフィ エミリー・ブラント マット・デイモン

≪映画史に残る重要作≫

2023年の北米市場で『バービー』と並んで興行収入を押し上げる要因となった大ヒット作『オッペンハイマー』は、日本人にとってデリケートな問題である原爆をSNSの気軽なネタにした映画会社およびそれへの対処ミスにより、日本市場では公開前から「要注意案件」として扱われてきた。

配給会社はどこも手を挙げず、結局興収1400億円を超える大ヒット作なのに23年中の公開はかなわず。それどころか日本公開未定が長く続く異常事態となった。

やがて炎上を恐れぬ会社ビターズ・エンドが引き受けたものの、さすがに原爆投下の8月(本来なら最も稼げる夏シーズンだが)は避け、3月末に日本公開日を決めた……とされているわけだが、実は私はそれは違うのではないかと考えている。

1942年、米陸軍レズリー・グローブス(マット・デイモン)は「マンハッタン計画」を率いる学者としてJ・ロバート・オッペンハイマー(キリアン・マーフィ)を招聘する。グローブスに依頼され、各地から有能な人材を集めるオッペンハイマーは、アインシュタイン博士は?と聞かれ「もう過去の人だ」と言い捨てるほど勢いのある研究者だった。

その活躍の甲斐あって、開発競争でナチスをしのいだ彼らは、ついに人類初の核実験を成功させる。だが本物の原爆の破壊力を目の当たりにしたオッペンハイマーは、その頃から激しい罪悪感に悩まされるようになってゆく。

まず映画の出来から言うと、この作品は決して「面白い映画」とか「スケール感あふれる超大作」ではない。とくに前半は多数の登場人物による専門用語だらけの会話の応酬で、かなりの予備知識が無いと初見で完全に理解するのは厳しい。

綺羅星のごとき大スターが歴史上の人物を演じ、共演するが、クリストファー・ノーラン監督は人物の描きわけがうまくない。どのキャラクターも平板に扱い、それぞれのスターの持ち味はあまり生かされない。親切な説明があるわけでもないので、気を抜くと「この人誰だっけ」となる。

そうした点を踏まえてだが、それでも私は本作を「映画史に残る重要作」と評価する。

まず、この映画が公開されると、おそらく「史実と比べてここが違う」とか「原爆の被害を描いていない」といった批判が出てくると予想できる。

映画がどれだけ史実に忠実かは、歴史学者の意見を聞いてみたいと思うが、大事なのは史実と合っていればOKで、違っていたらNGというような、正しいようであまり大した意味のない批評に惑わされないことだ。

映画とは作り手の意志を込めたものであり、言いたいことを言うための媒体。また、作品にはコンセプトというものがあり、それを理解しないと、「原爆の被害を描いていない」といった的外れな批判を繰り返すことになる。わかりやすく説明しよう。

結論から言うとこの映画のコンセプトは、「感情的な要素を排除して事実だけを見た場合、アメリカによる原爆開発とは、どう見えるのか」というものである。

つまり「原爆を描いた映画のくせに広島長崎の被害を描いていない」のは当たり前で、日本人の観客に冷静さを失ってほしくないために、ノーラン監督はわざわざそうしているのである。

そもそもこの手の批判をする人たちは、この映画が「米軍側の被害も描いていない」事にまったく気づいていない。

そういうものをノーラン式のド迫力のリアル映像で出せば「ほれみたことか日本軍は卑怯鬼畜だ、原爆開発は正義だった」という形に、一部観客(米国の保守派など)の感情を誘導してしまうからだ。監督はそれをしたくないから、あえて出さないのである。

広島長崎の悲惨な映像を出さないのも、まったく同じことである。日本人や反核主義者が「ほれみたことか原爆投下は正義じゃなかった」と感情的になってしまうから、あえて出さないのだ。

真珠湾攻撃やヒロシマナガサキだけじゃない。東京大空襲の被害も、あるキャラが「言葉」で説明はするが「映像」にはしない。さらにナチスによるユダヤ人被害も、「言葉」では説明するが「映像」では出さない。まったく同じパターンが繰り返されている。どれもこれも、映画的には本来あり得ない演出である。

ここまで来れば確信犯。ノーラン監督は「あえてどの陣営の被害も、意図的に描かなかった」のである。

ノーラン監督は、この映画を見るであろう、すべての「被害者」の感情的な反応を極力排除して、なるべくニュートラルな精神状態で、歴史的ターニングポイントと言うべき原爆開発の史実を判断してほしかったのだろう。

さて、このように隠されたコンセプトを解き明かしてから改めてこの映画をみると、非常に面白いものが浮かび上がる。

オッペンハイマーという人間は自身にとって都合の悪い事実(これを開発したらえらいことになる、必ずドイツあるいは日本に対して使われる、何十万人が自分の作ったもので死ぬ)について、明らかに見て見ぬふりをして開発を続けてゆくのである。

これは、演じるキリアン・マーフィの名演もあって、非常に分かりやすく伝わってくる。

彼は学者であり、軍人たちのような確固たる愛国心や復讐心、自国の正義を信じ切る政治家のような「大量虐殺の大義名分=免罪符」を持っていない。だからこの「不都合な真実」に、彼の精神は耐えきれない。

「科学の進歩のため……」などと必死に「ボクだけの免罪符」を考えるが、軍人や政治家がかかげる「戦争を早期終結させたんだから正義!」といった強力な「免罪符」に比較して、いかにも貧弱である。そんなものでは、数十万人を虐殺する彼の精神を支える免罪符にはなりえない。それが本作を見ると良く分かる。

これを史実かどうか判断するのは意味がない。大事なのは、ノーラン監督はそのようにオッペンハイマーという人物を描いているという事実である。

圧巻なのはトリニティ実験成功のシーンで、大喜びする関係者の中、オッペンハイマーだけが喜びとは遠く離れたところに精神が吹っ飛ばされたことが、強烈なスペクタクルとともにこちらに伝わってくる。この場面でのキリアン・マーフィの表情演技はとくに素晴らしい。ここからオッペンハイマーは、罪悪感にさいなまれる「人生崩壊ルート」へと迷い込んでいく。

ここまでくればもう言い切ってよいと思うが、恐らくノーラン監督は原爆開発を強行した国々に対して、かなり否定的な考えを持っている。

そもそも、この映画は冒頭で、原爆をプロメテウスの火に例えている。

ギリシャ神話で、プロメテウスが天界から盗んで初めて人類にもたらした火のことで、人類はこれによって文明とともに、大きな不幸とリスクをしょい込むことになったとされる。

この例えは、核技術をマイナスにとらえる際の比喩としてのド定番であるから、ノーランがそもそも原爆開発をどのように考えているか、最初に高らかに宣言しているようなものだ。

さて、そろそろまとめるが、まずこの映画は「感情的な要素を排除して事実だけを見た場合、アメリカによる原爆開発とはどう見えるのか」を描いたノーランの挑戦だということ。

ではその結果、はたして「原爆開発」はどのように見えるのか? ここはぜひ皆さんそれぞれで解釈していただきたい。

ヒントとなるよう、注目すべき点をあげておこう。

まずは水爆開発の父エドワード・テラー(彼がユダヤ人という点が重要だ)が、どのような人物として描かれているか。

次にトルーマン大統領とバーンズ国務長官(原爆投下強硬派)が、どのような人物として描かれているか。

それぞれ印象的なセリフを吐くので、記憶にとどめていただきたい。

そしてこれらの人物と比較して、アインシュタイン博士がどう描かれているか。

その描写の違いをみれば、この映画でノーランが言いたかったことの、ほぼすべてがわかる仕組みになっている。

その答えが分かった時、この映画がこれまでアメリカ映画が言えなかった、一つの厚い壁を突き抜けていることに気づくだろう。

このようなテーマをハリウッドのメジャー作品が堂々と描き、年間トップクラスの興収をあげた。アカデミー賞も取った。これを歴史的転換点と言わずになんというか。

映画を見る目のある人が見れば、『オッペンハイマー』の主張が、ハリウッドのタブーを打ち破る偉業だったことはすぐにわかる。映画会社として当然、本作の映画史的価値を理解し、受賞を確信したビターズ・エンドは、だからこそアカデミー授賞式(3月11日)直後となる3月29日にこの映画の公開を決めたのではないか──。私にはどうしてもそう思えてしまうのである。



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