『ゴジラ-1.0』90点(100点満点中)
23年/日本/125分 公開日:2023/11/03 配給:東宝 監督:山崎貴 出演:神木隆之介 浜辺美波 山田裕貴

≪『シン・ゴジラ』を超える、タイムリーかつ熱いドラマ≫

ハリウッドとの間に大人の事情があるなどと言われるが、『シン・ゴジラ』から7年間も国産ゴジラ映画が作られなかった最大の理由は、あまりに『シン・ゴジラ』の評判が良すぎて、下手なものを作るわけにはいかなかった東宝サイドの責任感によるものだろう。

そして、それだけのことはあった。『ゴジラ-1.0』は『シン・ゴジラ』と比べても劣らない、むしろ部分的には上回るほどの映画作品であり、世界中のゴジラファンやハリウッド版のスタッフらに、日本の映画人の矜持を見せつけた恰好となっている。

戦後数年がたち、ようやく復興し始めた日本。特攻隊の生き残りである敷島浩一(神木隆之介)は、戦中の混乱の中で出会った大石典子(浜辺美波)、そして戦災孤児の少女と3人で家族のように暮らしていた。そんな時、突如東京に大怪獣ゴジラが出現。だが兵力を持たぬ日本政府はもちろん、占領軍であるGHQもソ連の目を気にして出撃せず、銀座の街は蹂躙されるがままになってしまう。

実は敷島には、かつて特攻出陣の日、離島で遭遇したゴジラに友軍部隊を全滅させられたという、誰にも言えない過去があった。自分こそがこの怪獣と対峙する運命だと悟った彼は、同じく東京の片隅で生きていた「死にぞこない」の元軍人らと協力し、乏しい装備や物資で創意工夫して、次の上陸阻止に向けたゴジラ殲滅作戦を敢行するのだった。

日本のゴジラシリーズは、こう言っちゃなんだがシリーズ末期などは粗製乱造状態であった。あの頃から比べると、今のゴジラは映画作品としてクオリティが雲泥の差だ。ギャレス・エドワーズ版の『GODZILLA ゴジラ』(14年、米)あたりからだが、決定打となったのは『シン・ゴジラ』(16年、日)だろう。

それらに比類する作品を作るため、東宝のスタッフは今回、山崎貴監督らと協力して30回以上、脚本を書き直したそうだ。つまり「内容、ストーリー」で勝負しようとしたわけだ。

まさに正解である。彼らは若手社員に「絶対漏らすなよ」と厳命したうえでダメ出しを含む感想を提出させ、徹底的にユーザー目線で本作の脚本を作り上げた。私としては東宝社員の口の堅さにはやれやれと、いや大いに感服するものである。

そもそも今の東宝社員に昭和29年製作の初代ゴジラから関わった人間などいるはずもなく、さらに若手ともなれば、2004年まで作られた旧シリーズさえリアルタイムでは知らない人も少なくないだろう。

そういう人たちは判定ベースが『シン・ゴジラ』なのだから、とてつもなく高いハードルを本作に求めたはずで、これはじつに上手いやり方であった。

そして、結論として作り手たちは、本作の舞台を初代ゴジラより前の1940年代後半に設定した。

マイナスワン、と読むタイトルの通りこの時代の日本人は何も持っていなかった。自衛隊もいなければ、日米安保条約もない。

つい昨日まで、焼け野原に廃材で柱を立て、バラックを作り必死に生きてきた時代だ。そうして必死に再建した街を、ゴジラは無情にも破壊する。なのに日本政府は何もできない。占領中のGHQも米軍も知らんぷりだ。

国民を守るべき連中が、まったく役立たずなのである。ここに過去のゴジラシリーズや『シン・ゴジラ』との決定的な違いがある。

本作で踏みつぶされる家や建物は、ただのミニチュアではない。戦争に家族や仲間を殺され、心が折れそうな人々がなんとか肩を寄せ合って暮らしていた、リアルな生活のよすがである。そしてゴジラの足元で逃げ惑う人間たちは、地獄のような戦争の災禍をなんとか生き残った、消えかけた灯のような命である。

それをこの怪獣は、容赦なく殺戮していく。

ここで観客と共に堪忍袋の緒がブチ切れた日本人が、なんの後ろ盾もない民間人たちが、ゴジラを殲滅すべく立ち上がるのである。

これほど燃える設定は他にあるまい。

東宝の愛国ビジネスというべき「永遠の0」(13年)、「海賊とよばれた男」(16年)、「アルキメデスの大戦」(19年)のような映画を作ってきた(作らされてきた?)山崎貴監督が、「ALWAYS 三丁目の夕日」シリーズで蓄積した、昭和の映像を復活させる手腕をふんだんにふるって、史上最も熱いゴジラ映画『ゴジラ-1.0』を作り上げた。

この歴史的な流れは、まさに必然。すべて本作のためにあったのだとつくづく感じる。

米軍やら集団的自衛権やら日本政府というものが、最大の国防の危機にまったく役に立たない皮肉な設定は、現代の日本に通ずる本作のメッセージというべきものだ。それは、安っぽい愛国ビジネス映画とは一線を画した、骨太なテーマである。

戦後間もなくの時代に、大国による核軍拡へ堂々とアンチテーゼを打ち出した初代ゴジラの末裔として、本作の批判精神はまさにふさわしい。

また、単なる怪獣映画としても、残酷描写を排除し、小学生くらいから大人まで純粋に楽しめるエンターテイメントに仕上げてある点は特筆すべきだ。

「機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ」(20年)が地上目線の近距離モビルスーツ戦により圧倒的恐怖感を与えることに成功したように、本作もゴジラのサイズを大幅に縮小し、逆に「実感ある恐怖感」を高めている。こうした映像的工夫が、熱い脚本力によりレバレッジを効かせてこちらの心に迫る。

縮小版のゴジラが主人公らのちっぽけな掃海艇に迫る場面は、まさに日本人大好きサメ映画のフォーマットそのものである。

……と、私は各所で言っていたわけだが、じつは後で聞いたら本当に彼らは『ジョーズ』などのサメ映画を意識してこの映画を作ったらしい。それを一発で見抜いてしまうとは、さすがはサメ映画専門家の私と言わざるを得ない。

そんな恒例の自画自賛はともかく、このほか、巡洋艦が決死の砲撃を行うシーンや、信じられないほどのオンボロな木造船でゴジラに立ち向かう悲壮な戦いの場面は、今も目に焼き付いている。思い出す限り、あの傑作『シン・ゴジラ』でさえも、これらのアクションシーンほど胸を震えさせたものはなかったように思う。

山田裕貴や佐々木蔵之介、吉岡秀隆、青木崇高といった男キャラの演技がまた見事なもので、怪獣映画だからこそ許されるオーバーアクト気味のパフォーマンスが、演出方針にもぴったりである。

30回も書き直しただけあって、無駄をそぎ落とした脚本もテンポがいい。いちいち描かなくていいところはちゃんと省略しているところが、日本映画としては珍しい。他の映画もこのくらいの手間をかければ良くなるという証拠だ。

『ゴジラ-1.0』は、この秋最大の話題作にして、超映画批評としてもイチオシの作品である。唯一の心配は、次のゴジラを監督する人には、ほとんど絶望の感想しか残らない事であろう。だがそれを吹き飛ばすほどのアイデアを持った人に、私はぜひ名乗りを上げてもらいたい。それが邦画のエンターテイメントの質を高めていく、唯一の方法であり希望だからだ。



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