『スパイの妻』40点(100点満点中)
2020/10/16公開 20年 日本 115分 監督:黒沢清 出演:蒼井優 高橋一生 東出昌大

≪ドラマと映画の目指すべき方向性の違いを痛感させられる≫

17年ぶりとなるヴェネチア国際映画祭銀獅子賞(監督賞)受賞もさることながら、もともとテレビドラマとして作られたものが、3大映画祭で受賞するというのも、なかなか異例な話である。そんな『スパイの妻』は、戦争の足音がしのび来る1940年の神戸を舞台に、時代に翻弄されたひと組のカップルを描いたサスペンス映画である。

神戸で貿易会社を経営する優作(高橋一生)は、満州で日本軍の「不都合な真実」を偶然知ってしまう。義憤からそれを世に出そうとする彼だが、夫との愛が何より大事な妻の聡子(蒼井優)は、二人の生活が危険にさらされると猛反対する。一方、時代は開戦前夜であり、ひそかに聡子を思う旧知の津森(東出昌大)も、いまや軍の走狗と化し、夫妻への監視と関与を強めていくのだった。

人妻に思いをよせる男を東出昌大が演じるというだけで、ある種の緊張感が漂う映画だが、そのままスリリングな三角関係になるとか、泥沼の離婚劇になるといった展開にはもちろんならない。

蒼井優演じる聡子はまっすぐに人を愛する純粋な女。平時ならば、何の問題もなく幸せになったであろう夫婦が、戦争によって生まれた疑心暗鬼によって人間関係を破壊され、幸福を吹き飛ばされ、人生を翻弄される物語である。

東出昌大演じる津森にしたって、戦争中でなければせいぜい不倫未遂ですむところ、本当は大好きな隣の奥さんを疑い、追わねばならない悲惨な運命をたどることになる。

ああ、戦争とはなんて残酷なもの。戦争反対! No War,Love Peace!

……という、単純な反戦映画かと思いがちだが、おそらくそうではあるまい。

戦争ドラマの衣をかぶっちゃいるが、本当のテーマはもう少し普遍的な、"世の中"と対立してしまった個人の行く末、といったところであろう。いつの時代でも、優作のような、損だとわかっていながら、やるべきことをやろうとする人物はいる。そういう、本来まともな人間が生きにくい舞台の象徴として、戦前の日本を選んだのだろうと私は推測する。

退陣後、支持率80%になるような政権下でも、汚れ仕事を押し付けられ罪悪感から自殺する"個人"がいる。

BLMデモをテロ扱いする妄想にとらわれた人たちが多数いる国の出身で、そんな事をすれば嫌われることが分かっていながら堂々とBLMマスクを着けて戦う誇り高い運動選手"個人"もいる。

冷静に世の中を見ていれば、今ほどこのテーマが相応しい時代もないのだが、かといって現代日本を舞台にすれば、あまりに政治的になりすぎて映画作り(もともとはNHK放映用のドラマ作り)としては難しいだろう。

だから、あえて戦前を舞台のドラマにした黒沢監督の気持ちはわからないでもない。

ただ、その副作用で、このドラマは余りに平凡で面白みに欠ける。物語に意外性はなく、演技にもない。裏に何かあるのではないかと想像するきっかけとなる、意図的な違和感や気持ちの悪さを鑑賞者に残すこともない。だから、私のようにわざわざ深読みして楽しもうとする人もほとんどいないだろう。

ドラマ版と映画版の違いは、スクリーンサイズぐらいだというから、もともと映画の観客向けに構成したわけではなく、あくまでお茶の間のお客さん用だったのかもしれない。だとしたらそれが、映画としてのエッジが足りない印象につながっている。

個人的に演出面で気になるのは、物語の中で最も重要な、蒼井優=福原聡子の突飛な行動の必然性が薄い点である。

彼女の価値観は、「夫への愛」ファーストであるが、それを観客すべての先入観や主義主張を吹き飛ばすほどのものと感じさせなくては、この物語の感動が薄れるのは当然。

そして、それを感じさせるためには彼女の行動が、彼女の価値観においては絶対に必然なのだとこちらに納得させてもらわなくては困る。

それは、理屈としては、ある種のどんでん返しとともに彼女の行動の真相が明かされる場面で伝えるべきであるが、そこがこの映画はとても弱い。

そのシーンをみても、だからと言ってあんなことする理由にならねーだろバカか、と思う人が大多数であろうし、それは正しい。

では彼女は愚か者なのかといえば、そういうキャラではないだろう。聡明なのに(役名も聡子だ)、愛ファーストで驚くべき行動をとる女、ってな設定になっているはずだ。そうでなければ、後半を含めた彼女の行動に整合性が取れなくなる。

彼女の最初の行動は、明らかに彼女が最も求めた幸福を危険にさらしている。その意味で、彼女の行動は支離滅裂で矛盾している。

そこを納得させることができていれば、もう少し話に意外性が生まれて面白みが増したし、観客としても、「面白かったからその先に隠されたテーマをほじくってみるか」となったと思うのだが。



連絡は前田有一(webmaster@maeda-y.com 映画批評家)まで
©2003 by Yuichi Maeda. All rights reserved.