『わたしは金正男(キム・ジョンナム)を殺してない』85点(100点満点中)
20年 アメリカ 監督:ライアン・ホワイト

≪見たいものをすべて見せてくれるサービス映画≫

最近でも反プーチンの野党指導者が毒殺されかけたりしているが、共産国家における権力争いの容赦なさたるや、大変なものである。いうまでもなくその最たるものは北朝鮮であり、金正男暗殺事件はいまだ記憶に新しい、衝撃の出来事であった。

オウム真理教のテロ事件でも使われた液体状の猛毒VXガスを顔面に塗られて殺された金正男は、家族を東京ディズニーランドに連れていきたくて日本に密入国したところをあっさりつかまるなど、わが国でもお騒がせ男として知られていた。

ディズニーランドはお前の国にとって敵国の象徴だろと、誰もが突っ込んだことは間違いない。そんな、どこか抜けたエピソードや、でっぷりとした体形、自由世界の文化や社会に詳しく、金王朝体制批判までやってのけるなど、一部では共感を集め人気も高かった。

そんな彼が、おそらく権力闘争の中で暗殺されたことで、日本でもこのニュースは一気に駆け巡った。

だがこの暗殺事件が特異だったのは、暗殺現場が海外(マレーシア)の空港であったことだ。当然人目は多く、監視カメラも多数。犯人の動向や暗殺の瞬間、そして運ばれるところまで、一連の犯行が高画質な映像で記録されている。あっという間にそれらが報道されたのも異例だが、犯人が若い女性二人だったことも驚きであった。

あんな、見るからにひよわな女の子、それも外国人が、金正日の長男を暗殺などできるのか? 日本も韓国もアメリカも、みな混乱した。

『わたしは金正男(キム・ジョンナム)を殺してない』は、この事件で暗殺の実行犯とされたこの二人の女の子が、はたして本当に犯人だったのか。その真実にせまるドキュメンタリーである。

あいまいなラストではなく、完全に真相を明らかにして終わらせるので、見た後モヤモヤすることもない。本格的なサスペンス映画のような優れた音楽、退屈しらずのエンタメ的演出にあふれているので、事件に興味がある人すべてにすすめられる。

ひとつ印象的な場面を紹介しよう。

まず、実行犯の一人であるシティという女性と、北の工作員を引き合わせたジョンという名のタクシー運転手がいる。ところがなぜか現地の検察は、かたくなにその重要証人を弁護士に合わせようとしなかったとの証言がある。ああ、そいつの話さえ聞けたらな……とすべての観客が残念に思った次の瞬間、画面にジョン本人が現れる。マジかよ! お前ら名探偵かよと大興奮確実な、じつに心憎い演出である。そんな感じのシーンがいくつもある。

この映画には、できることなら事件のその後について詳しく調べたことのない、ウィキペディアも読んでない、だけど当時のショックは覚えてるよ、といったくらいの観客が望ましい。衝撃の、まったく衝撃としか言いようのない展開とラストに、きっと大満足できるはずだ。

「女優だのユーチューバーを名乗った女たちの素性は?」「犯行後の手の動きから、彼女たちは毒物の存在を知っていたはず」「どっきりカメラと思い込んでいたなんてことがありうるか?」「多少は噛んでいたんだろ?」「犯行後さっさと帰ったのはおかしい」

こういった"なぜ?"は、映画を見るとすべて解決される。見事なまでの「観客の疑問解消マシーン」である。予習は不要、これ一本で完結する。

まあ、ぶっちゃけウィキペディアにも事件の詳細は書いてあるのだが、ネットには誤りも多いことが映画を見るとよくわかる。だいたい、あれを読んでもちっとも面白くない。この真相を調べ上げた人たちの凄みもドラマもまったく伝わらない。

なので、絶対に先に読んではいけない。もし読んでいたら自己暗示をかけて今すぐ忘れなさい。

そもそも、書いてある内容であっても映像があるとないでは大違い。初公開の映像もあるし、当時からずっと見たかった高精細なカメラ映像など、よくまあここまで映像素材、インタビューなどをそろえたものだと頭が下がる。

実はこの事件、裁判の都合で公開できなかった証拠が山ほどあり、本作のスタッフは交渉の結果、それらを公開する事に成功したのである。

このレベルの取材力と構成力、そしてエンディングを誇るドキュメンタリーに出会う機会は、年に一度くらいしかないだろう。その制作経緯をきいていると、あまりにドラマチックすぎて感動すら感じるほど。本作のクルーに、いわゆる映画の神が下りてきたことは間違いない。ネタばれになるので詳しく書けないが、興味がある人はパンフレット等で確認してみると良いだろう。

最後に一つだけ、はっきりとはわからない謎が残るものの、それは諜報や外交にかかわることでやむを得ない。……が、推理のための証拠は十分に示してあり、おそらくはこうだろうと想像することはできる。

その意味では、考える楽しみも適度に残してくれたというわけで、まったくもってよくできた作品というほかはない。



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