『ラストブラックマン・イン・サンフランシスコ』65点(100点満点中)
19年/アメリカ/120分 監督:ジョー・タルボット 出演:ジミー・フェイルズ ジョナサン・メジャース ロブ・モーガン
≪パーソナルな体験を社会問題提起へリンクさせた≫
新人監督が映画を作るとき、実体験を生かそうとするのはある意味王道である。しかし、いくら自分のことを描いても、大抵の観客は興味など持ってくれない。そりゃそうだ、私だって土屋太鳳や芳根京子の半生やら日常なら、どんなにへたっぴな監督でも見る気になるが、知らないオッサンの話など時間を割くのも嫌だ。
だから、自分の人生の中から興味深い体験を抽出するとともに、大勢が我が事のように感じられる普遍性を、映画監督は持たせなくてはいけない。
祖父が建て、かつて一家で住んでいたビクトリアン様式の家への思いを捨てきれないジミー(ジミー・フェイルズ)。彼は親友モント(ジョナサン・メジャース)と共に時折訪れ、現住民のいない間に勝手に修復するなどして思い出にしがみついていた。そんなある日、その思い出の家が空き家になるとの情報が彼のもとに入る。
『ラストブラックマン・イン・サンフランシスコ』は、ジョー・タルボット監督と主演ジミー・フェイルズ(二人は幼馴染である)のサンフランシスコ時代の実体験を基にした映画である。
……が、それと同時に見事なまでに現代の先進国のあらゆる都市の住民に通ずる普遍的なテーマを内包させることに成功していて、その意味では十分よくできた佳作といえる。プランBおよびA24という、アカデミー作品賞候補の常連となっている独立系映画会社がタッグを組んだ作品だが、彼らが目を付けたのも納得の出来栄えである。
とはいえ、この映画をさっと見て理解できる日本人はそう多くあるまい。
まず問題点として、出てくる人間たちの関係性が分かりにくい。兄弟なのか家族なのか、説明不足でよくわからないまま話が進んでゆく。こういうのは何の意味もない、ただわかりにくいだけなのでやめてほしい。
とにかく観客としては、主人公の黒人青年二人は、幼馴染だった監督と主演の関係を投影したキャラクター、すなわち友人同士だということを最低限予習してから挑むとよい。
そうして見ると、どうも彼らは「変われない男たち」だということがわかる。昔住んでいていた家にこだわって毎夜見に行くなんてのはその最たるものだが、そもそも町の変化に対して彼らは批判的である。
その気持ちは簡単に想像できる。幼いころの幸せな思い出が、消え失せてしまう気がするからだ。今があまり幸せではない、もしくは昔より悪くなっていると感じている事についても理解、共感できるだろう。
つまりこの映画は、(あまり好ましくない方向へ)変ってゆく街や世の中に対し、対応しきれずにいる人間の物語、なのである。
たまたま監督の体験の場がそこだからサンフランシスコになっているが、考えてみればこのテーマを描くのにこんなに適した町はない。
戦中は日系人移民の町だったが戦後は黒人の町、そして近年は全米有数の格差の町へと短期間で変わっていったサンフランシスコ。しかもこの町の古き良き姿、その魅力は、往年のハリウッド映画のおかげで全世界の人々が見て知っている。今のサンフランシスコの姿とは全く違う。この二人の気持ちもなんとなくわかる。
弱肉強食の新自由主義をアメリカが世界中に輸出した結果、同じように悪しき変化をおこした町は数限りなくある。日本でも地方都市はコピペのように国道沿いのチェーン店とショッピングモールにしか人が集まらない、面白みのない街へと変わってしまった。
そんな故郷の街をしかし捨てられないジミーは、繰り返すが「変われない、変わりたくない人々」の象徴である。だから、友人で才能あるコフィーはとっくにやめたのに、彼はスケボーをいまだに手放さない。変われないからだ。
つまり、このアイテムは決して絵になるから脇に抱えているわけではなく、映画のテーマの中で極めて重要なものという事なのである。映画を存分に味わいたいなら、こういうところに注目するとよい。本作の場合、スケートボードがどうなるか、そこを見逃さなければ監督の意図は手に取るようにわかる。
自分は変われないのに町のほうが変わってしまい、もう彼が愛したものは戻らない。そんな切なさを思い知らされる話。それでも人は、生きていかねばならない。
現トランプ政権が決定的に広めてしまった社会の分断と不寛容についてもそれとなく批判。そのうえで、どうすればそうならずにすむかを何度も繰り返し伝えようとする。そんなブラックムービーらしいサブテーマも含んでおり、いかにも現代の映画として見ごたえがある。
最後に立つ黒人男とはだれなのか。『ラストブラックマン・イン・サンフランシスコ』は、様々な決断、そこにいたる葛藤を描きながら、それらを温かく見つめる、きわめてまっとうな視点を持つ人間ドラマである。