『ジョーカー』90点(100点満点中)
監督:トッド・フィリップス 出演:ホアキン・フェニックス ロバート・デ・ニーロ

≪現代社会への深刻なる警告≫

『ジョーカー』は特殊な成り立ちの作品である。まず背景として、大成功を収めているマーベル・シネマティック・ユニバースに対抗したDCの似たような試みが、どうもうまくいってない状況があった。

そこでいったん、まずは独立した映画として完成度の高いものを作ってみようとの機運が関係者の間で高まり、本作の企画にゴーサインが出たのである。

題材として選ばれたのはバットマンシリーズの悪役ジョーカーだが、「とにかくいい映画作品を」ということで、この映画にコミックの原作はない。何度もだめだしされながら1年かけて書いた脚本があるだけだ。

中身は一応ジョーカーの誕生秘話ではあるが、漫画版にある「もともと売れないコメディアン」との設定も捨てた。だからこの映画のジョーカー役は過去に演じたジャレッド・レトーではなくホアキン・フェニックスだし、今後、他のバットマン映画などとも連結する計画はない。

すべては、単独作品としてどうしても描きたいテーマがあったためだ。そのために、入れ物としてジョーカーのキャラクターを借りた。それ以上に大事なのはテーマであり、また現時点で日本の批評家でこれを明確に解説している人はいないので、本稿ではその点を中心に書いておこうと思う。

不況風が吹き荒れるゴッサムシティ。老いて病気がちの母親と暮らしているアーサー(ホアキン・フェニックス)は、ピエロの扮装でサンドイッチマンをするなどして糊口をしのいでいた。だが彼には、緊張すると笑いが止まらなくなる持病があり、それが原因のトラブルが絶えなかった。いつかコメディアンになりたいとの夢を持ち、ギリギリの暮らしで踏みとどまる中、福祉など彼ら親子を支えていたものは次々と失われてゆくのだった。

結論から言えば、本作は現代社会の暗喩であり、このままいけばこうなるぞという警告である。

具体的には「ジョーカーは一人ではない、現代はお前たちも含め、誰もがジョーカーになりゆく時代だ」と言っている。

だから後半、群衆が同じピエロのお面をかぶる展開になるのである。大事な点は、ジョーカーが彼らを率いたのではなく、大衆の積もり積もった不満が爆発する、そのほんのきっかけとなったにすぎないということ。

しかもそれはのちにジョーカーとなるアーサー自身が意図したものですらない。まさに彼は、ピエロの役回りに過ぎないことに留意すべきだ。

当サイトで何度も言及しているように、いまのアメリカ映画界は「分断」を大テーマとして追いかけている。本作における、上流階級とそれ以外の断絶構造も、非常にわかりやすくそれを表している。

だが『ジョーカー』が素晴らしいのは、その「分断」の発生原因を明確に提示している点である。

それは、いうまでもなく主人公アーサー一家の境遇である。

彼らは社会から見捨てられているどころか、存在すらしていないほどの扱いをされている。なんと、アーサーは3人もの市民を偶発的に殺害しても見向きもされない、発見もされない。つかまりもしない。

彼はそれまで必死に"笑い"を我慢し、ストレスをため続け、人生を"悲劇"と解釈して自分を抑え続けてきた。一方で上流階級はアーサーが憧れるテレビ画面の向こう側で、自信満々に振る舞い、堂々たるトークで人々を従えるかのように笑わし、豪華な劇場で観劇を堪能する。そこにはストレスなど一切感じられない。

これは、現代社会の「分断」秩序が、下の階層のものだけが一方的に我慢を強いられ、それによって成り立っていることをまさに言い当てている。この世の中は、弱きものだけが我慢し、「悲劇」に甘んじていると、そういっている。

そしてこの映画は、その我慢が限界に達したときに何が起きるかを、まさに「警告」しているのである。しいたげられた者たちが悲劇を喜劇に変えようと決意し、我慢をやめたときに、社会があっけなく崩壊してゆく様を、まさに映像として見せようというわけだ。

その中でも、ジョーカーを追う刑事の存在は、まさに「分断」の象徴であるから注目してほしい。

彼はジョーカーを「秩序を乱すもの」として電車内で追いかけているが、車内の人々が自分が命がけで守るべき市民だという意識が完全に欠如している。この病的状況こそが、現代社会のいびつさを維持させている元凶であり象徴だと、そのように感じさせられる。

もしもこの映画を見て、アーサー=ジョーカーを悪だと感じた人がいたとしたら(ある程度そう思わせるように仕組まれているが)、その人はかなり重症である。洗脳されているといってもよい。これを機に、本気で自分を見つめなおしたほうがよい。

この映画の中のジョーカーは、何度も何度も何度も、人さまに迷惑をかけずにいきる道を歩む可能性と意志があった。

だが社会はそれをことごとく無視した。

その最たるものが、バットマンことブルース・ウェインの父親であろう。彼こそが、その病んだ社会の象徴であり、カタストロフィを引き起こした要因である。彼がその気になれば、社会の崩壊を食い止めることができた点に注目しよう。

そして挑発的なことに、ジョーカーがボンネットに横たえられてからの一連のシーンは、キリストの物語を暗喩している。それは車上で彼がとるポーズを見れば一目瞭然である。では、悪魔は一体だれなのか?

このような含みを持ったドラマを、アメリカの観衆は絶賛しているというのだから、あの国もじつに病んでいる。今の世に激しい不満があり、正確にはわからないがその原因が自分ではなく社会にあるのではないかと、そう考えている人たちが増えているという事だ。

本作が警告する「堪忍袋の緒が切れる」瞬間は、そう遠くないかもしれない。引き返すなら今しかない。いうまでもなくそれは、わが国でも、あるいは他の先進国の多くでも全く同じであろう。



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