「存在のない子供たち」90点(100点満点中)
監督:ナディーン・ラバキー 出演:ゼイン・アル・ラフィーア ヨルダノス・シフェラウ

≪結末に仕掛けられた、現実変革への力≫

現在、日本では自公政権によって、全力で移民推進政策が進められている。

かつては、移民だの難民なんてものは対岸の火事で、日本人には関係ないと思っていられたが、そんな時代はとうに過ぎ去った。安倍政権になって以来、国内の外国人長期滞在者(観光客は含まれない)は、民主党時代の二倍にまで増やされている。

留学生だの技能実習生などと呼ばれながら、その実態は奴隷労働者という外国人がそこらじゅうに溢れ、これからも増やし続けようとしている。彼ら気の毒な外国人は、日本で劣等感と恨みの感情をはぐくまれ、やがて世界に散っていく。なんというひどい"成長戦略"か。

国民はそんな国にしたいと思ったことなど一度もないのに、「この道しかない!」などと言って、移民国家、外国人差別国家への道を驀進しているのが実情なのである。

だからアンテナの鋭い人は、この『存在のない子供たち』のように、移民難民の壮絶な実態を描いた映画をちゃんと見に行く。

いま、世界中でこのテーマがホットワードになっているのは、日本よりも先に日本と同じような移民推進政策をとった先進国の国民が、おそろしくひどい目にあっているからに他ならない。

「この道しかない!」のウソに隠された"別の道"を選ぶ事も今ならできる。だがもうほとんど時間はなく、最後のチャンスである。このまま行けば日本はつぶれる。確実に。

だから今のうちに、こうした映画を見て少しは感性を鋭敏にしておくことが、もはやほとんど大人の義務だと私は思っている。

12歳のゼイン(ゼイン・アル・ラフィーア)は、中東のスラムで暮らしている。家族思いのゼインは11歳の妹の面倒もよくみていたが、生活苦の両親は幼い彼女をわずかなカネと引き換えに、二回りも歳の違う男のもとへ嫁に出してしまう。その蛮行を止められなかったゼインは怒りと絶望から親を捨て、家を飛び出す。だが出生未届けのため身分証さえ持たぬ孤独な少年にとって、外の世界は弱肉強食の地獄そのものであることを、まだ彼は知らなかった。

この映画は、『キャラメル』などのナディーン・ラバキー監督が、数年間かけて現地を回り、移民や難民について徹底したリサーチのもとに得た非情なエピソードを、たくさん詰め込んで劇映画の形にしたものである。

一目見ればこの監督が、不当な扱いを受ける子供たちの境遇に激しい怒りを感じ、どうにかしたいとの思いを込めて作ったことがすぐわかる。

カメラが追いかけるゼインの物語は、深刻でスリリングな生存=サバイバルドラマである。何しろ彼には何もない。注がれる愛もない、戸籍すらない。存在しない、誰も手を差し伸べてくれない、そんな人間なのである。

だが、これは外国の特殊な環境ならではの問題ととらえるべきではなかろう。

私は彼の立場に強く共感する日本人も、きっと少なくないと確信している。なぜならワーキングプア、貧困女子、氷河期世代などなど、この国にはいま、ゼインと同じように社会から見捨てられた人たちがあふれている。そしてそれはゼイン同様、"自己責任"によるものでは断じてない。

彼らの顔を思うとき、私にはこの監督の感じた怒りの強さがよくわかるのである。

気を抜けばカネだけじゃない、命さえも取られる。それは先進国の、とくに都市で暮らす人間にとっても同じである。カネがなければ都市部では生きていけない。家族や仲間の救いが得られなければ、簡単に人は死ぬ。

そんな中、ゼインは驚くべき機転と勇気、行動力を持ってしぶとく生き残ってゆく。さすがはスラムで育った子だ。

だが、それでも年齢が年齢だけに、観客は不安と恐怖をかきたてられながら彼の冒険の旅を心細く見守ることになる。たくましいゼインの、凛とした目から、きっと多くを学ぶことになるはずだ。

なお、演じるゼイン・アル・ラフィーアはじめ、本作に出てくるのはプロの役者ではない。監督やキャスティングディレクターが各地で見つけ出した素人、生活者たちだ。

しかも、演じる役柄に近い境遇の人物をわざわざ配役するとんでもない演出がなされている。ゼイン役はもとシリア難民だし、文字は名前を書くのが精いっぱいの教育しか受けていない。

彼と出会い、赤ん坊の世話をしてもらう代わりに食と住を提供する不法移民の女性役も、若く美しい外見から女優かと思えば、じつは難民キャンプ育ちだという。幼少期にはホームレスの経験もあり、母親は移動のさなかに死亡。本人もこの映画の撮影中に、不法移民として逮捕されてしまった。

やがてゼインが世話をする彼女の赤ちゃん=ヨナス役も、撮影中に両親が逮捕され国外退去を命じられてしまった。今も両親は、離れ離れの国においやられてしまったままだ。

なんという"当事者"映画だろう。この映画はれいわ新選組か。

こうしたなか、唯一プロの役者といえるのは、弁護士役の監督本人くらいなもの。だからこの映画に出てくる人々の演技は、演技でありながらも真実味の高さが半端ではない。

ひとりぼっちの少年という、これ以上ないほどの弱者が、不法移民の赤ん坊の命を預けられるという、これぞ格差社会の究極の地獄絵図。

二人はいったいどうやって生きればいいというのか。明日ではない、今日食べるものすらない状況下で、サバイバルなど無理ではないか。繰り返すが、都市ではカネがなければ何もできないのだ。

現実世界の救いがたい絶望を知るラバキー監督は、どうやらこの映画の終盤と結末にひとつの仕掛けを施している。細かく言うのは興をそぐので注意深くお伝えするが、物語の最後で、ゼインが人生の流れを変えるため、ある事をする場面がある。そして、その後の展開に現実味を感じにくいと思った人が、もしかしたらいるかもしれない。

もしあなたがそうだとしたら、ぜひ今から書くことを思い出してもらいたい。

あなたが見ている、一見非現実的に感じるその展開は、いままさに劇場の椅子にすわっているアナタが実際にやっている事なのですよと、監督はそう伝えているのである。

それに気づいたとき、この監督がどれだけ必死に、真剣に、この世の中をよくしたいと思えており、映画監督というわずかばかりの力を使って出来ることはないかと考えていたかを理解することになる。きっと、とてつもなく深い感動に襲われるだろう。

それこそが、世の中を良くすることにつながるのだと、要はそういうことである。

監督の本気度と知性を感じると言わざるを得ない、これは相当な傑作である。



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