「花戦さ」40点(100点満点中)
監督:篠原哲雄 原作:鬼塚忠 出演:野村萬斎 市川猿之助 中井貴一
目で楽しむ栄養
茶道というものが戦国時代以降、政治にさえ大きな影響を与えたことはよく知られている。だが茶と花というように華道にも似た要素があるにもかかわらず、そちらはあまり取り上げらえることはない。「花戦さ」は、そんな風潮を打ち破るべく作られた、「花」で政を正そうとした実在の男の物語である。
ときは戦国時代。京都の紫雲山頂法寺、通称六角堂に、斬新な発想と高い腕前で知られる花僧の池坊専好(野村萬斎)という男がいた。あるとき、天下の織田信長(中井貴一)とトラブルになりそうなところを秀吉(市川猿之助)の機転で救われた専好は、以来彼と友情を深めてゆく。ところが秀吉の世になるとその専横ぶりが人々を苦しめるように。かつての盟友・千利休(佐藤浩市)の言葉さえ届かなくなったのを見た専好は、自分なりの方法で秀吉に思いを伝えようとするが……。
飢饉で人々がばたばたと倒れていたとき、池坊専好はそうした亡骸に花を手向け続けていた。原作者の鬼塚忠は、3.11を見て何かを感じ、池坊専好の伝説をもとにこの物語を作り上げた。
そこにこの現代とのリンクを見出したわけだ。確かに川のほとりで死んだ人に専好が花を手向けるシーンはいかにも日本的だし、感動的なものがある。演じる野村萬斎も本作の出演を機に、花を生ける技術を学んだという。
私は年に数回ほど、美術館等に生け花の展示会を見に行くことがある。どこも盛況で驚かされるが、それ以上に手の込んだ芸術作品としか言いようのない作品の数々に魅了される。明らかに日本の華道というものは、世界に誇れる我が国発祥の伝統美である。
いうまでもなく人間は、摂取したものからできている。口から摂取する食べ物・栄養だけではない。目で見たものも同様に「摂取」と私は考える。映画という芸術作品を論評するものとしては、よい食物を食べるように美しいものを見なくてはならない。私には華道を評価する知識はないが、そう考えて足を運ぶようにしている。
そんな考え方からすると、本作のもうひとりの主演である美しい生け花の数々には圧倒される。初代の志を受け継ぐ現・池坊専好率いる華道家元池坊が監修しているからこの点は大きな見どころといえる。
また生花とその制作中の様子をこれほどみずみずしく撮影するのは、さぞ大変だったろうと想像する。映画撮影ではベストタイミングの光をとらえるために半日待つこともあるが、本作ではそれに加えて花である。見えない苦労をうかがわせる力作といえる。
ただ、本作を時代劇としてみると荒っぽさが目立つ。
たとえば秀吉だが、プロットに合わせるように愚かな暴君の側面を強調しすぎている。いうまでもなくこの人物稀代の天才武将であり、カリスマを持つ。いろいろ問題はあれど、その点を疑う人はほとんどいまい。
秀吉嫌いの民族ならともかく、日本人にとって本作の描き方は少々一面的に過ぎるし、薄っぺらく感じる。それは腰ぎんちゃくぶりがひどい石田三成も同様である。
実在の人物を描く際にこうした描写の偏りは致命的となりやすい。時代劇の経験豊かな役者もそろっているが、彼らでさえどこか衣装に着られているような印象を受ける。
主演の野村萬斎は狂言師で、どこか浮世離れしたしぐさや表情が持ち味だが、彼のそうした強い個性を生かすには、それ以外の人物により厳格なリアリティが求められる。この映画はそこが弱い。
また、映画が始まった途端、いきなり長々と背景説明のナレーションが続くというのもあまりに芸がなく、どうかと思う。言葉以外で説明するのが映画の真骨頂である。もう少し工夫をすべきだろう。
映画とは、こういうところにあらゆる意味での「余裕」の有無が露見するものであり、邦画がチープだといわれる原因となっている。
これならいっそ全体をもっとコメディーに寄せ、最後の大砂物(横幅を広めに鉢に活ける形式)だけシリアスに締める、といったメリハリをつけたほうがよかったのではないか。野村萬斎の個性も、そのほうが生きたのではないかと私は考える。