「タンジェリン」55点(100点満点中)
監督:ショーン・ベイカー 出演:キタナ・キキ・ロドリゲス マイア・テイラー

全編iPhoneで撮影したスタイリッシュムービー

最近のiPhoneのCMには、妙に美麗な画像映像を流した後に「iPhone7で撮影」などとネタ晴らしする、というものがある。いまどきの若い人には想像もできないことだろうが、中年以上のユーザーにとってスマホのカメラ機能はいまだに「電話のオマケ」と思われがちである。ああしたCMはそうした層に、その凄まじい高性能ぶりをアピールする狙いもある。

ロサンゼルスの街角、クリスマスイブ。短期間ながら服役を終えた娼婦のシンディは、同僚のアレクサンドラに浮気性の恋人の愚痴をぶちまけている。それを聞くアレクサンドラは、うんざりしつつも自分のライブの集客のことを考えている。誰も気に留めることのない、街の片隅で繰り広げられる奇妙なイブのドラマが今、始まる。

いきなりクラシックな雰囲気のシネスコ画面に面食らうが、「タンジェリン」はなんと特注のアナモルフィックレンズを装着した3台のiPhone5sのみで撮影された低予算映画である。

いまiPhoneをはじめとするスマートフォンは、撮影用のリグだのレンズといった拡張機器がたくさん発売されており、ユーチューバーレベルならこれだけですべて完結させることも不可能ではないほどの万能機器。だが、製作費200億円のアベンジャーズと同じ入場料で勝負する商業映画の世界でとなると、これは初めての試みではないか。

ただしショーン・ベイカー監督は、アイフォン撮影を売りにするつもりはなかったという。普段だれの目にもとまらぬド底辺を這いつくばる住民の日常を、寄り添うように生々しく撮影するには小回りが利く上、周囲にカメラを意識させずに済むこれがベストと考えたにすぎないというわけだ。

まあ、およそこの手の制作裏話なんてものはそれ自体がセールストークだったりするので話半分で聞くのがいいわけだが、それにしてもスマホでも大スクリーンの上映に耐える映像が撮れるとはすごい時代である。

思えばかつて日本のテレビドラマ「モテキ」を廉価な一眼レフGH1で撮影したと聞いたときは驚いたものだが、今では一眼動画の映画など珍しくもない。だが、アイホン映画となればさすがの私もびっくりするし、フォロワーも現れない気がする。話の種にはぴったりだ。

ちなみに二人の娼婦役は実際の親友同士で演技経験はなし。性転換中だというからリアリティは満点だ。舞台はロサンゼルスの治安の悪い一角で、救いのない「ラ・ラ・ランド」とでもいうべきウンザリ感を味わえる。

そこで生きねばならぬ人々の絶望的な状況に観客は驚かされるわけだが、本作の脚本、エピソードは実際の住民の実体験に基づくというのだから実にとんでもないことだ。

こういう地区の、それも男娼や娼婦という、まったく世間から手を差し伸べられる可能性がない人々。それを見て何を思うか。興味のない人には全く響かないかもしれないが、感性豊かな人なら、きっと得るものも少なくないだろう。監督はこれまで一貫して社会から疎外されている人の話を、客観的にとっている。そこに伝えたいものがあるということだ。

いまLGBTは映画界でホットなテーマだが、この映画には男娼のほかにも、カミングアウトできないその客、というきわめて深刻なシチュエーションも描かれている。彼なりに必死に家族を支えてきたのに、報われない人生を送る姿。その背後には、似たような境遇の人が血がきっと大勢いるだろう。そんな風に思わされる。

目立たないカメラだから営業中のカフェで撮影、なんて離れ業もできたという。ズームを切り捨て、広角だけで撮った潔さも独特の映像美となっている。

技術的な興味で見てもいいし、LGBTのテーマを味わってもいい。なお、本作のどこか温かいムードは、この映画が実際に登場人物のような人々に見てほしい、との思いから作ったものだからだろう。



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