「たかが世界の終わり」60点(100点満点中)
監督:グザヴィエ・ドラン 出演:ギャスパー・ウリエル レア・セドゥ

体調が万全の時にみるべき

「たかが世界の終わり」はグザヴィエ・ドランという若き監督の思想、個性が色濃く出た作品で、それを理解していないと作品のいわんとすることが非常にわかりにくい。だが後述するが、現在においては珍しい視点を持つ監督なので、理解者による絶賛が多いのはよく理解できる。

成功した作家のルイ(ギャスパー・ウリエル)が12年ぶりに帰郷した。彼が疎遠だった家族に会いに来たのには、大きな理由があった。じつはレイは病に侵されており、余命わずかであったのだ。だが過去のある出来事を理由に一度空中分解した家族たちは、表面上は友好を取り繕ってはいるものの、簡単に秘密を打ち明ける雰囲気には程遠く、レイはなかなか言い出せないのだった。

グザヴィエ・ドラン監督は、家族のことを「まるで傷跡」と表現する。だからこの映画は家族についての物語でありながら、家族愛マンセーとか無条件で揺るがぬ絆、みたいな明るい視点で描かれることはない。彼の映画を見る時の、基本中の基本でもある。

9.11テロ後、とくにアメリカ映画では家族こそ至高、家族愛以上に美しいものはないといわんばかりの家族マンセー映画が大量生産された。そういうものに辟易する人の目にはドランの「苦い存在なのに離れることが困難」という独特の家族観の映画が新鮮に映り、高く評価されている。とくに彼を見つけ育てたカンヌにおける扱いは特別で、本作のグランプリ受賞も完成度以上の評価だと揶揄する人も少なくない。

じっさい彼の過去作に比べれば決して良くできた方、ということはないと私も思うが、それでも非常に力のある映画であることは確かだ。とくにこの映画で語られるように、LGBTの人たちは必ずしも家族の理解を得られているわけではなく、その場合はこうした苦い家族関係の話は身につまされるものがあるだろう。

自分のせいで予想以上に傷ついていた家族の姿を見ても反論しない、そんな主人公の姿には、死を前にした悟りとでもいうべき大人の視点、家族に対する深い愛情とともに「家族」をあきらめきれない無邪気さも見られ、胸を締め付けられる思いがする。私は同性愛者ではないがこうしたドランの家族観はいつも腑に落ちるものがある。その意味では相性がいい監督なのだと思うが、人によってはまったくダメな映画作家であろうこともよくわかる。

今回気になったのは、ヴァンサン・カッセル演じる兄のキャラづくりについて。ヴァンサンは66年生まれだが主人公が34歳という設定だから、40代そこそこといった設定だろうか。だがそれにしては幼すぎる感じがする。

成功した弟と、立場上などの理由から外に出られなかった兄。さまざまな事情を抱えるとはいえ、あのテストステロンの多さはほとんどティーンのそれで、ヴァンサンに近い世代である私のようなものから見ると違和感が強すぎる。89年生まれのドラン監督には、まだ40男のリアルは描けないのかなと思ってしまう。

さて、こうした部分からもわかるとおり、この監督にとっては家族とは鳥かごのようなもの。出られないものにとって、出たものに対する嫉妬のような感情はぬぐいがたいものがある。だが、はたしてそうだろうかと監督は問いかける。たとえ飛び立ったとしても、見えない壁のように束縛するものではないのか。最後までこの監督は、そんなふうに暗示する。

徹頭徹尾重苦しく、似たような体験をした人にはたまらないストレスとトラウマ再帰の危険性がある。相変わらず、体調万全の時にしか見られない、そんなグザヴィエ・ドラン監督作品である。



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