「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」75点(100点満点中)
監督:ジャン=マルク・ヴァレ 出演:ジェイク・ギレンホール ナオミ・ワッツ

妻が死んだのに涙が出ない

「ダラス・バイヤーズクラブ」のジャン=マルク・ヴァレ監督が、「ナイトクローラー」(2014)など近年高くその演技力が評価されているジェイク・ギレンホールを主演に作ったこの「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」は、その長ったらしい邦題同様、よくまあこんなわけのわからない話をこれほど面白い映画にしたものだと感心させられる佳作である。

ウォール街の優秀な金融マン、ディヴィス(ジェイク・ギレンホール)は、誰もが羨む成功した暮らしを送っている。ところがあるとき妻が交通事故死。だが彼は、その訃報に涙も出ず、なんら感情を動かされることもなかった。

おなじみブラックリスト掲載のオリジナル脚本の映画化だが、これはかなりうまくいった部類に入る。

妻が死んだのに何の悲しみもわいてこない男の話というと、西川美和監督の「永い言い訳」が記憶に新しい。だが、最初から夫婦仲が終わっていたあちらのわかりやすさに対し、こちらの主人公はなぜここまで妻の死に心動かされないのかが不明瞭である。

主人公本人でもわからないのだからこれは難解な謎解きだが、観客はその謎を必死に考えつつ、やがて奇行に走る彼の物語に夢中になる。スーツを捨てワークウェアで過ごすようになり、身の回りのものをなんでも分解し始める彼の行動に、はたしてどんな意味があるのか。それがいったいどんな「癒し」と「再生」につながるのか、当初はさっぱりわからないだろう。

そしてその最たるものが、故障した自動販売機へのクレームを延々と自分語りの手紙にしたためて送ったことがきっかけで知り合うカスタマーサービスの女性(ナオミ・ワッツ)との奇妙な交流である。

この手紙のやり取りが非常に面白いので詳細は書かないが、これを見るともしかしてこの二人が恋をして……なんて陳腐なストーリーを観客は想像するかもしれない。むろん、演出家がそう誘導しているわけだがコトはそう単純ではない。なにしろオフィスのものまでなんでも分解してしまう、完全にイっちゃってるような主人公だ。まったく先の展開の予想はできない。

これほどわけのわからない要素だらけの話に、この監督はきっちりとオチをつけ、猛烈な感動の仕掛けを施し、時代に合ったテーマを忍び込ませる。まったく大した腕前というほかない。

だが、さらりと見ただけではなかなかわからないかもしれないので、事前に読んでも興味をそがない程度の解説をしておこう。

この話は要するに、偽善、欺瞞というものが巻き起こす弊害とそこからの解放がもたらすものを、やや抽象的かつ肯定的に描いている。

妻の死を何とも思わない男の話はとっぴだが、それによって描かんとするこのテーマは普遍的で、ある程度の人生経験を積んだ大人ならば合点がいくものだ。人は多かれ少なかれ偽善を演じ、そのストレスで消耗している。

そしてこれは、特に今のアメリカでは顕著な問題といえるのである。たとえばポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)の行き過ぎが、かの国ではここ最近大きな問題となっている。

これは簡単に言うと、「いくら理屈では正しくても、行き過ぎたタテマエは別の問題を起こす」ということ。たとえば差別がよくないからと、それを連想させる言葉を禁止にして無難な新語に言い換える。それがいきすぎれば言葉狩りとなって別の差別やストレスを生む。といった具合である。また、報道でそれをやりすぎれば、メディアの言葉の信用性が揺らぐ。

それを大声で批判して当選したのがトランプであり、その意味では本作のテーマはきわめてタイムリーといえるのである。もちろん本作は人間ドラマであって社会批判の映画ではないが、そのいわんとするところ、価値観については今のアメリカ人にとっては大いに共感できるはずなのである。これを2015年の段階で発表したのだから、この映画の作り手はなかなか世の中を見る目が鋭いといえる。

そんなわけで映画はLGBTの要素まで盛り込みながら、予想外のフィナーレに向けて突っ走る。特筆すべきは病院におけるナオミ・ワッツの演技で、なるほどこのシーンのために彼女の演技力を温存したかと思わせる見事な名場面となっている。ぜひご覧あれ。



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