「STAND BY ME ドラえもん」55点(100点満点中)
監督:八木竜一声の 出演:水田わさび 大原めぐみ

原作のいいところ全部入りだが

ピクサー超えまで視野にいれ、日本最良というべき原作のCGアニメ化に挑んだ「STAND BY ME ドラえもん」だが、彼らの前にはピクサー以前に藤子・F・不二雄という高い壁が立ちふさがっていた。

ダメ少年のび太(声・大原めぐみ)の前に、22世紀から子孫を名乗るセワシ(声・松本さち)がタイムマシンに乗って現れた。なんでも大人になったのび太のこしらえた借金のせいでひどい目に合っているのだという。そこで彼は、嫌がるネコ型ロボットドラえもん(声・水田わさび)を強制的にプログラムしてのび太の世話役に置いていくというのだった。

この映画の問題点ははっきりしていて、それは総集編では決してないのに総集編感がきわめて強く感じられるという一点にある。

原作のいいとこ取りを映像の力で飾りたて、さらに観客の脳内にある思い出補正された感情を引き出し泣かせる。「ALWAYS 三丁目の夕日」シリーズでで成功した手法だから、山崎貴監督はこのやり方に絶対の自信を持っているのに違いない。

だがドラえもん、いや藤子・F・不二雄の壁はそれでは打ち破れぬほどに厚かった。69年の連載開始から幾年月、映像技術はドラえもんを創造した原作者の想像力をすらこえるほどに発達したというのに、この映画はその原作の感動に遙か及ばない。それが明らかになってしまったことがなにより痛い。

具体的に指摘すると、原作屈指の感動作「さようなら、ドラえもん」。のび太とドラえもんの別れを描いた事実上の原作最終回だが、夢遊病設定のジャイアンとのケンカで、ズタボロになってもしがみつくのび太を描いたほんの数コマの流れ。あれを映画にして、ここまでくどく、不自然かつ陳腐なものになるとは誰も想像しなかったことだろう。

あの感動を2014年の映画が、それも日本の娯楽映画のトップランナーが越えられないというのはどうしたものか。日本のエンターテイメントの演出力とは、映像技術と反比例して退化しているのか。それとも伝承の断絶でも起きているのか。

この回から「帰ってきたドラえもん」に至る流れは原作最大のネタバレ回でもあるわけだが、それを遠慮なく採用したのも問題だ。「STAND BY ME ドラえもん」をみると、二人の監督がいかに原作を読み込んでいて、愛しているかがよくわかるが、だからこそ疑いようのない傑作ばかりを脚本に盛り込んできた。

だがそれは、悲しいかな藤子・F・不二雄にはるかに及ばない演出力でそれら珠玉のストーリーを駆け足で見せられてしまうということでもある。

とてもじゃないがこの完成度で、アニメだけで原作未読の子供たちにネタバレをくらわしたくはない。それはかけがえのない傑作の読書体験を無駄にするようなものである。

とすると本作は、監督並みに全エピソードを読み込んでおりネタバレの心配がないお父さん世代が大人だけで見に行って、あのころの感動を思い出して再度泣く、といった不自然な使い道に限定されてしまう。

またそれにしても、90分の映画に出かける時間があるならば、キンドルに7巻までぶち込んで再読すればすむ話である。日本のマンガ原作映画は、まずは足下を見つめ直す必要があるとつくづく思わされる。



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