「大統領の執事の涙」65点(100点満点中)
監督:リー・ダニエルズ 出演:フォレスト・ウィテカー オプラ・ウィンフリー 

理想と現実の間のどこに軸足を置くべきか

昨年あたりから人種差別問題、奴隷制、またはその時代を描いた映画が、アメリカではちょっとしたブームになっている。この「大統領の執事の涙」もその一つだが、こうした差別問題に対する運動史、すなわち公民権運動についてコンパクトに理解できる教科書的映画だとあちらではもっぱらの評判である。

綿花畑の奴隷の息子として生まれ育ったセシル(フォレスト・ウィテカー)は、成長してからは給仕の仕事をひたすら真面目にこなしていた。やがて認められ、幸運な出会いが重なりホワイトハウスに勤めることになるが、長男はそんな父親をしり目に反政府的運動にのめりこんでいくのだった。

とはいえ、こいつをお勉強映画としてだけ見るのは惜しい。実在の人物をモデルにしただけあって、リアリティと両立された波瀾万丈の人生はそれだけで見応えがあるし、彼が仕えたそれぞれの大統領の個性や人間臭いエピソードの数々には親近感を感じられる。アメリカ近代史に興味がある人にとっては、いずれも興味を引く内容だろう。

その上で私は本作に、理想主義と現実主義のせめぎあい、という新たな視点を提案したい。平たく言うと、主人公とその長男の関係のことだ。

主人公セシルがいきすぎた現実主義者であることは、作中、何度も繰り返して描かれる。この「いきすぎた」というのがポイントで、だからこそ彼はこの時代に大統領の給仕などという、およそ考えられる黒人の職としては再重要な立場につくことができた。

だが一方でセシルは公民権運動の闘士となった息子がメイミー・ティルの講演会に行こうとしたときに、全力で止めようとする。

メイミー・ティルとはだれかというと、リンチされ殺害された息子エメットの母親。この殺人事件はあまりに凄惨な手口から世論を揺るがし、黒人の人権問題について全米に影響を与えたとされている。公民権運動史においてはきわめて重要な事件であるが、セシルはそれすらも即断で「関わるな」と断言し、聞く耳を持たないのである。

少しくらい理解してあげても良さそうなのにと、見ているアメリカの観客たちがセシルに違和感を感じ始める大事な場面となっている。

ちなみにこのほか、黒人が白人席にあえて座るシット・イン運動や、白人専用席を無視して仲間とバスに乗り込むフリーダム・ライダーズなどといった運動に長男が参加することで、運動史の王道を理解できる親切設計になっている。

それはともかく、現実主義に生きて実際に家族を守り続けた父と、理想に燃えて家族を危険にさらしている息子の対照的な価値観は、物語をエキサイティングに彩る。

成功者である本作の黒人監督リー・ダニエルズが、どちらの立場に肩入れしているかは徐々にわかってくるが、果たしてあなたはどう感じるだろう。もしかしたら、意外にもこの映画があなたの価値観をひっくり返してくれるかもしれない。少なくとも、違う意見にも傾聴の価値があることは、説得力を持って教えてくれる。

その意味で、奴隷制とはあまり縁のない日本人観客にも楽しむ余地がある映画といえる。



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