「スティーブ・ジョブズ」35点(100点満点中)
監督:ジョシュア・マイケル・スターン 出演:アシュトン・カッチャー ダーモット・マローニー
ドキュメンタリーで予習が必要
伝記とは個人の生涯を記録したものだが、伝記映画はそうではない。この両者の違いが分かっていない監督が伝記映画を作ると、「スティーブ・ジョブズ」のような作品が出来上がる。
既存の会社組織になじめない若きジョブズ(アシュトン・カッチャー)は、友人たちを集めてガレージでアップルコンピュータを創業する。独創的なアイデアと尽きない情熱、仲間たちの献身的な支えを武器に破竹の勢いで成長するジョブズとアップルだったが、やがて彼らは壁にぶち当たる。
伝記と伝記映画の違い。これを語り考察するのに本作が最適なのは、ちょうど先月「スティーブ・ジョブズ1995 〜失われたインタビュー〜」(11年、米)という、すぐれたドキュメンタリー(というか本人の70分間しゃべくり映像)が公開されたばかりで、比較しやすいというのが理由である。
「スティーブ・ジョブズ1995 〜失われたインタビュー〜」の方は、さすがはプレゼンの神様の自分語りだけあって、ろくに編集せずとも起承転結がしっかりしておりわかりやすい。これは、「各々のエピソードがスティーブジョブズの人生にとってどういう意味を持つか」をきっちり伝えているから。
そしてまさにそれこそが、今回の劇映画版「スティーブ・ジョブズ」に決定的にたりない点なのである。
「伝記」はあったことを漏れなく記録すればいいが、「伝記映画」は各事項の「意味・意義」を描くことが本筋でなければならない。そうでないと、かのスティーヴ・ジョブズの人生ですら観客にとっては退屈で、とても見ていられない。それが映画というジャンルの怖さであり、特性である。
この2本の映画は奇しくも、ジョブズがアップルを追い出されたあと復帰して快進撃を遂げるという、まさに同じ時期について扱っている。だが劇映画版だけをみて、なぜジョブズの身にこうしたことが起こり、あのような行動をとったのかがわかる人はまずいないだろう。
私のように「スティーブ・ジョブズ1995 〜失われたインタビュー〜」を見たばかりの人なら心配はないが、よそ様の作った映画で予習してからでなくては楽しめないというのは、いくらなんでもまずい。
たとえば、若きジョブズが画期的なボードを作って街のガレージショップに持ち込み、あれよあれよという間に成功者となるくだりも、それこそあっという間に描かれてしまう。
急がないと全部つめこめないな〜、よーしボク、スタイリッシュでハイテンポな編集で突っ走っちゃうよ! ──という作り手の勘違いが見えるようだ。
結果、見た人は「なんであんなもんであそこまで成功できたの?」「なんであのジョブズに呼ばれたオッサンは、たかがヒッピーの集まりに、一声何十万ドルも投資したの?」と、頭の中がハテナマークで埋め尽くされよう。
これらは、一つ一つのエピソードの持つ意味を描いていないから起こる悲劇である。
観客はジョブズがボードを手作りした「事実」でなく、そのボードを店に卸したとき、その利益率では永遠に会社が成長しない事に気づき、高く売れるオールインワンパソコン開発の必要性を痛感したという「意味」にこそ、面白さを感じるのである。
もっとも、アップルとジョブズくらいになれば、単に事実の羅列とトリビアをまとめただけでも面白くなったかもしれないが、この作品はいかにも中途半端でブランドストーリーとしてもいまいちパッとしない。
アシュトン・カッチャー演じるジョブズはじめ、実在の人物たちのそっくりぶりとか、内輪受けしそうな要素は多々ある。ただ、あのアシュトンにしてこの好感度の低さ、いけすかないキャラづくりというのはどうなのだろう。
たしかに嫌なやつと評判の経営者ではあるが、その先見の明と才能から信奉者も数多い。日本でも、影響を受けてニューバランスばかり履いているちょっとイタい経営者がいたりする。だが、お金を払ってまで見に行くのは、そうしたファンのほうが多いようにも思う。彼らがこのアシュトン版ジョブズから、カリスマ性を感じるかどうか。
いずれにせよジョシュア・マイケル・スターン監督には、コンセプトをもう少し似詰めたうえで、「伝記映画」のツボというものを研究することが肝要だとアドバイスしておく。次回作では、痛快なるリベンジを期待する。