「汚れた心」60点(100点満点中)
Coracoes Sujos 2012年7月21日(土)よりユーロスペースほか全国順次ロードショー 2011年/ブラジル/日本語・ポルトガル語/カラー/107分/配給:アルバトロス・フィルム、インターフィルム
監督:ヴィセンテ・アモリン アソシエイト・プロデユーサー:奥田瑛二、橘豊 挿入曲:宮本笑里 キャスト:伊原剛志 常盤貴子 菅田俊 余貴美子
現代に通じるものがある
今となっては信じがたい話だが、かつて終戦直後、ブラジルの日本人移民社会ではかなりの長期間、日本が戦争に勝ったと本気で思い込んでいた人たちがいた。
彼らは「勝ち組」と呼ばれ、真実の情報を得て日本が負けたとことを知っていた「負け組」と深く対立した。その対立と抗争はとどまるところを知らず、勝ち組は負け組を非国民と罵り、やがて悲惨な結末を招くことになる。
こうした史実は、現代の日本人にはあまり知られていない。だがブラジルではこの問題を扱った書籍がベストセラーになったこともあり、そこそこホットなテーマである。
フェルナンド・モライスによるその原作に着想を得て作られたこの映画は、フィクションではあるが、2年以上のリサーチを経て作られた、リアリティある歴史ドラマである。ブラジル映画ではあるが、ほとんど日本語でドラマが進み、おなじみの日本人俳優たちも多数登場する。
終戦直後。ブラジルで写真館を営む高橋(伊原剛志)は、妻(常盤貴子)と静かに暮らしていたが、元陸軍大佐ワタナベ(奥田瑛二)が街にやってきてすべてが変わる。勝ち組の権化たるワタナベは、禁じられている集会を開き移民たちを半ば洗脳するようにリードしてゆくのだった。
現代とは異なり、正確で早い情報源のない時代である。その状況が巻き起こした悲劇といえなくもないが、考えて見ると意外とそうでもない事がわかる。
なぜならインターネットが発達し、いつでも正確な情報を即座に入手できる現代においても、あらゆる事項についての誤解と対立は全く解消されていないからである。
例えば従軍慰安婦という歴史問題があるが、これなどは愛国的な保守主義者にとっては、単なる売春婦のゆすりたかりということで決着がついている。そこに韓国政府が乗っかったプロパガンダと、そういうことである。
しかしその反対に、どんなに証言に矛盾があっても本気で韓国の老婦人らの訴えを信じている人たちも少なくない。どちらも同じ情報源にアクセスできるのに、その情報源への信頼、扱いが異なることによって、両者は永遠に分かり合うことはない。
こうした点を考えると、情報網が発達したからといって、人の対立がなくなるわけではないというわけであり、なかなか考えさせられる。
とくにこの映画が現代に通じると思われるのは、いわゆるここに出てくる「勝ち組」たちが、余りにも激しい愛国心(とそれによって行動する者たちによる扇動)によって原理主義者と化し、真実を見誤った点である。
これは、現代においても同じような人たちが存在する。過剰な愛国心から、自分の国の放出した放射能や事故の責任を過小評価してみたり、挙句の果てには身体に良いからむしろいいコトだったなどと吹聴して回ったりする。
普段からバカにしていた大嫌いな中韓に、みっともない原発事故を起こして大迷惑をかけてしまった現実を認めるのが悔しくてかなわないのである。ニッポンの技術力は世界一ィ! とおごり高ぶった自らの過ちを認めることができないのである。
おまけに事故を唯一正確に予測し、具体的な防止策まで提言し続けてきたのが、これまたブサヨだのとバカにし続けてきた「反原発派」だったときた。危機管理やエネルギー問題には詳しいと自負してきたのに、よりにもよって脳内お花畑と思い込んでいた側に負けてしまった。プライドがズタズタボロボロになるのも仕方あるまい。
福島の原発事故は、建屋とともに彼らのアイデンティティー、そして信じてきた絶対の価値観を崩壊させたのである。
過剰な愛国心や原理主義ほど恐ろしいものはないという、この映画が描くテーマの、これは現在進行形の好例である。保守派はここがまさに正念場で、自らの誤りを認め正せるかどうかが次の時代に生き残れるか、あるいは原理主義者として消滅するかの分かれ道であろう。
ただ本作が少々惜しいのは、そうした日本の現況とこの時代の悲劇をリンクさせる視点がない点である。このあたりは、11年のブラジル映画だからやむを得ないが、それでも観客の思考意欲を刺激することはできる。
また、ドラマが余りにも小規模なコミュニティーの中で展開するために、史実について誤解を招きやすいという点もマイナスといえる。
おそらく普通の人がこの映画を見ても、なぜ平凡な写真店主だった主人公が過激原理主義者になるのかよくわからないだろう。日の丸掲揚や集会を白人たちに妨害され憤慨する描写もあるが、それだけでは日本人移民の多くがおかしくなる点について説明不足だ。
そこで思い出してほしいのだがこれはブラジル映画であり、ブラジル人にとっての常識は当たり前のように省略されているということ。
だからこそ日本人には説明不足と感じるのかもしれないが、ようするに戦争当時のブラジルは連合国側であり、戦時中ブラジルに住んでいた日本人移民はいわば敵性国民であった。そこで受け続けた規制と圧迫、屈辱感は耐え難いものであり、その積もり積もった不満と苦しみがこれを機に大爆発したというわけである。
だからこそ、本国である日本が負けるというのは彼らにとって絶対に認められないことであった。それを認めるということは、彼らの日本人としてのアイデンティティーの崩壊、そして、日本人としての未来の喪失を意味していた。そこに幸い?にして情報遮断されているいるという副次的な要因も重なり、次第に日本勝利を信じる原理主義者「勝ち組」が台頭するのである。
この最も重要な時代背景を不十分にしか描いていないことがこの映画の日本人にとっての最大の問題点である。ブラジル人にとっては常識かもしれないが、日本人にとってはわかりにくい。
当時は移民社会の9割が「勝ち組」だったといわれている。本来もっと巨大な歴史、社会問題だったのだが、そのスケール感を残念ながら映画からは感じ取れない。フィクションとはいえ、それが惜しいところだ。