『ダーク・シャドウ』40点(100点満点中)
DARK SHADOWS 2012年5月19日(土)丸の内ルーブル他 全国ロードショー 2012年/アメリカ/カラー/113分/配給:ワーナー・ブラザース映画
監督:ティム・バートン 原案:ジョン・オーガスト、セス・グレアム=スミス 脚本:セス・グレアム=スミス オリジナル脚本:ダン・カーティス キャスト:ジョニー・デップ ミシェル・ファイファー ヘレナ・ボナム=カーター エヴァ・グリーン
マンネリ打破への工夫が裏目
昔、いわゆるシナソバ的なラーメンしかなかった時代、あるラーメン店に連れて行ってもらった。堀切にあるその昭和的な店がまえの店は、今でいう背油チャッチャ系というやつで、初めて食べたときはこんな旨いラーメンがこの世にあるのかと感動したものだ。しかし時が過ぎ、あらゆるアイデアラーメンが出尽くした今、再びそこのラーメンを食べてもノスタルジー以外の感動はない。決して味が衰えたわけではないのだろうが、客の舌が進化してしまう。ティム・バートン監督最新作『ダーク・シャドウ』を見たとき私は、どこかそれに似た感想を得た。
魔女アンジェリーク(エヴァ・グリーン)にによって望まぬヴァンパイアにさせられたバーナバス(ジョニー・デップ)は、ふとしたことから200年ぶりに目覚める。名家だった一族が没落し、屋敷が荒れ果てる惨状を見た彼は、コリンズ家の再建のため奮起する。だが長年のブランクはいかんともしがたく、時代遅れの言動はまわりをときに呆れさせてしまう。
「唯一の財産は家族」をモットーにする一族の再建物語。これもまた、家族マンセーの不況アメリカらしい安直企画である。
さて、ティム・バートン監督といえば、ちょっぴり変わったキャラクターへの愛情を毎度テーマにしている映画作家。変わりものがゆえに、あるいはある種のフリークスなゆえに一般社会には受け入れられない。そうしたキャラクターをこのうえなく愛おしく描き、そこに観客の共感を集めてしまう。それが彼の映画の魅力である。
この最新作では、その手のキャラクターを演じるド定番俳優であるジョニー・デップが、200年ぶりの世の中に全くついていけない時代遅れな吸血鬼を白塗りのおかしなメークで演じている。水戸黄門なみの鉄板マンネリ企画である。
ところがこのキャラクターにはどこか共感しきれず、だからお定まりのラストの感動も弱い。果たして、ティム・バートンもしくはジョニデさんが衰えたのか、それとも観客の舌、いや目が肥えてきたのか?
プロの目から見ると、これは前者だろうと思う。同じテーマを繰り返し、同じ役者と仕事をし、今回は何と8回目のコンビだというが、そんなにも繰り返してくると、いろいろと弊害が生まれてくるのは当然。
たとえばプロ監督ならば、ここはなんとか変化をつけて飽きられないようにと思うわけだが、そこに落とし穴がある。最初は王道で勝負していたものが、常に変化球変化球となってしまい、8回目の今となっては最初から最後まで奇をてらった変化ばかり。
こういうものは、もはや横綱相撲とは呼べない。予算規模と映像のゴージャスさに反比例するように、映画の骨格は前頭10枚目くらいの変化相撲に落ちぶれてしまっている。これでいいと思っているならば、ティム・バートンは独りよがりの自慰監督と言われても仕方がない。
彼の映画に出てくる「異形なるもの」は、かつては社会的弱者の例えであったり共感先であったはずだ。この最新作にしても、「時代の波には乗れないが家族を愛する男」=普遍的価値感の体現、ではなかったのか。これはテーマとしては王道中の王道であり、こうした変化だらけの演出には全く向かない。
「フランケンウィニー」(1984)や「シザーハンズ」(1990)のころと違って、客が容易に感情移入できない変化だらけの奇天烈なキャラクターの存在は、物語の魅力を大幅に削ってしまう。監督はそこのところをよく考えて次回作を作らねばなるまい。
主人公以外のキャラクターについては、人間、化け物含め完全に添え物。古いドラマの映画化という制限はあるのだろうが、あまりに投げやりな描き方である。少なくともドラマ版を知らぬ日本の若者にとっては、とてものめりこめるものではない。
結局、ビジュアルや音楽は進化しているものの、ティム・バートン最大の魅力が作品ごとに感じられなくなっているのは寂しい限り。同じように感ずるファンも少なくないだろうから、ここは心を鬼にして厳しく書いておくことにする。
これでも客が入るから、9回目10回目11回目もあるのだろうが、このままではジョニーさんがレッドカーペットで27分間お客さんにサインをし続けたとしても、映画の方はそっぽを向かれてしまうだろう。