『ブラック・スワン』95点(100点満点中)
Black Swan 2011年5月11日(水)より、TOHOシネマズシャンテほか全国拡大ロードショー 2010年/アメリカ/カラー/108分/配給:20世紀フォックス映画
監督:ダーレン・アロノフスキー 脚本:マーク・ヘイマン、ジョン・マクラフリン、アンドレス・ハインツ 出演:ナタリー・ポートマン ヴァンサン・カッセル ミラ・キュニス バーバラ・ハーシー ウィノナ・ライダー

≪天才の誕生過程≫

菅直人首相が浜岡原子力発電所の即時停止を命じたという。電力不足が起きるぞと原子力村民たちが早くも国民を脅し始めているようだが、もとより浜岡原発は点検にかこつけて年間200日とか300日も休んでいるぐうたら原子炉の集まりである。いまさら残る2つを止めたところで電力など不足するはずもない。

この決断には自民党議員の一部が猛反発しているが、これでは首相の思うつぼ。脚本家的な視点から見れば、「自民党イコール原発利権」の印象が国民の間で強まれば、菅政権は労せずして「正義の味方」の役を勝ち取れる。

さらにいうなら、自民との対決色が盛り上がってくれば、菅下ろしの大連立政局をたくらむ党内勢力を黙らせる効果も期待できる。「ワルと手を組む奴は裏切り者」なのである。政治的には一石二鳥の合わせ技で、この一件だけ見ても菅首相はなかなかしぶとい。

立場は人を育てるというが、これだけ思い切った先制攻撃を打つあたり、菅直人も総理大臣としてついに覚醒したようだ。

むろん彼の場合、ただの昼食後の思いつきで言ってみた可能性も捨てきれないが、それでは『ブラック・スワン』批評の前ふりにならないので、ここはひとまず首相成長説をとっておく。

さて、ここからは話題作『ブラック・スワン』の話だが、この映画は論者によって様々な解釈がなされるであろう作品。少女の成長物語、ハイパフォーマンスなバレエを楽しめるスポーツ(?)もの、ナタリー・ポートマンのファンムービー等々。

だが私はこの作品を、「超一流アーティストの誕生過程」を描くドラマと(第一に)見る。その恐るべき生みの苦しみ、才能の覚醒に至るまでを、映画史上有数のリアリティとともに描いた大傑作である。先日「ミスター・ノーバディ」を年間ベストクラスと評したばかりだが、早くもそのライバル登場である。

ニューヨークのプロダンサー、ニナ(ナタリー・ポートマン)は、次の「白鳥の湖」公演で主役に抜擢される。だが挫折した元ダンサーの母親のもとで過保護に育てられた生真面目な彼女は、白鳥役は完璧に踊れるものの、魔性と退廃の象徴たる黒鳥の踊りをうまく表現することができない。この演目は、一人のダンサーが二役を演じ分ける点が最大の見どころ。彼女の才能に期待する芸術監督ルロイ(ヴァンサン・カッセル)には厳しく追い込まれ、自分と正反対の奔放なタイプで台頭著しいライバルのリリー(ミラ・クニス)からは突き上げられる。徐々にニナの精神はプレッシャーに押しつぶされ、やがて異様な幻覚を見るようになる。

一言で言ってしまえばメンヘラダンサーの克服体験記。菅首相なみの脱皮を、はたしてこの神経質な美少女バレリーナは遂げることができるのか。

ダーレン・アロノフスキー監督は当初、前作「レスラー」(2008)の脇筋としてこのストーリーを考えていたが、とても描ききれないと判断して分離した。この完成度の高さを見れば、それは結果的に功を奏したといえる。

この監督は、演出能力は並外れているものの、なぜか毎回貧乏で苦労している印象がある。今回も、せめて製作費25億円くらいは頼みますよとプロデューサーらにお願いしていたが、結局その半分も用意してもらえなかった。おかげでナタリー・ポートマンの1年半にわたる役作りのためのバレエレッスンのほとんどは彼女の自腹で、途中からはトレーラーも引き払って撮影に挑んだ。きっとナタリーさんには頭が上がるまい。

それでも完成版の出来栄えは見事なものだ。希望予算の半額でこれだけつくれるのだから次も安く作らせよう、などと出資者たちに思われていないことを心から願う。実力がありすぎて損をするというのも気の毒な話である。

さて、本作はひとりの少女の精神がぶち壊れていく様を、これでもかというほどショッキングな描写で描く。背中から薄気味悪いものが生えてきたり、指と指があんなことになったり、見た目上もかなり気持ちが悪い。

この監督のこうした「追い込み」描写のうまさは、麻薬患者を疑似体験できる「レクイエム・フォー・ドリーム」(2000)で証明済み。マジメちゃんの主人公が頑張って悪さをしてみるべく、悪友と麻薬を試すシーンなどは「レクイエム〜」をほうふつとさせるが、さらに演出は洗練されている。

そんなナタリー・ポートマンはオスカー(主演女優賞)受賞も納得の完璧な演技。あの美少女が、ずたぼろに壊れてゆく姿は残酷で、見るものを不安にさせる。激やせの役作りは、骨と皮だけの上背部に表れている。素人が見たら、本物のバレリーナに見えなくもないだろう。私のような筋肉のプロなどは、もっと細部を見るのでだませないものの、一般の俳優がバレリーナを演じた例としては最高峰と言っていい。

バレエシーンも見ごたえ十分。引きのショットを徹底的に廃し、バストアップの構図で寄り添うように激しく動き、ヒロインを追いかけるカメラワーク。これはナタリーさんのバレエ技術の至らなさをカバーすると同時に、「バレリーナの内面を描いたパーソナルな物語」であることを主張する意味もある。非常にうまい。

それに加えて、引き画面ではボディダブルにナタリー・ポートマンの顔面をCG合成するなどのハイテクも使っているのだから、これはもうバレエ映画としては比類なき迫力である。この件では、いろいろ批判やトラブルもあるようだが、中途半端なフェッテで黒鳥のpas-de-deux(「白鳥の湖」の見せ場の一つで、黒鳥が片足でくるくる連続で回るもの)を見せられるよりはずっといい。

ナタリー氏の演技についてさらに一言申し上げるならば、アーティストとしてふしだらな黒鳥を演じるため、一人Hに挑戦したときに露になる小さなお尻は見事なものである。色艶形、そして大殿筋の収縮具合など、この上ないエロスを感じさせるに十分。書いてみて気付いたが、ここで褒めている事項については、別に演技とは何の関係もなかった。

最後にこの映画の解釈についてのヒントを書いておく。この作品は主人公自身、現実と妄想がやがて区別がつかなくなることで一種のミステリ的要素を生み出しているが、その分観客も翻弄されやすいから多少の解説があったほうが親切だろうと思うためだ。

まずこの作品では、「鏡」が重要なアイテムとして何度も登場する。彼女が自分自身を見つめるとき、それは「鏡」を通してである。鏡に映った自分を見て、彼女はいろいろと悩み葛藤する。

やがて鏡の中の自分と本物の自分が違った行動をとったり、写るべきものがうつっていなかったりと、おかしな描写が繰り返される。

私は心理学の専門家ではないが、おそらくこの主人公は自己愛性人格障害というやつではないかと推測する。自己愛の研究といえばハインツ・コフート(精神科医)。コフートといえば「鏡」である。そしてコフートのいう「鏡」とは、この映画では「母親」を意味する。

ヒロインが「鏡を通じてみる自分」とは、つまりそういうこと。彼女が白鳥の湖を踊るその控室で、最後にその「鏡」に何をするか、そしてその「鏡」の一部で何をするか。客席に何を見るか。

この一連の流れこそが、このやせっぽちの天才アーティストが一人前として羽ばたくための総仕上げなのである。だから彼女は踊り終わった後に、ああいうセリフを語るわけだ。

彼女にとっては「鏡」こそが最大の足かせでもあった。それをふりきる事は、なんと苦しくつらいものであろう。こんなに苦しむなら、一流アーティストになどなりたくない。私のような平凡な才能しかない人々は、この映画を見てそう思うかもしれない。そしてそれは、きっと恥ではない。

神に選ばれた才能を持って生まれるだけではダメで、これほどの試練をくぐりぬけなくては一流になれない──。

この映画を見た後に、私は本物のバレエ、それも超一流たちのそれを見たくなった。今なら彼らの踊りの本当の価値を、映画を観る前よりはずっと実感できると思っている。



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