『靖国 YASUKUNI』0点(100点満点中)
Yasukuni 2008年5月3日より渋谷シネ・アミューズほか全国順次ロードショー 2007年/日本+中国合作/カラー/123分/配給:ナインエンタテインメント

このまま公開するのは大いに問題がある

右翼勢力の妨害行動により一部の映画館が上映を取りやめた件で、「表現の自由の危機」うんぬんを語り大騒ぎしている団体・メディア等は、表現の自由というものを根本的に勘違いしている上、問題の本質について不理解あるいは意図的に隠そうとしている。

編集で印象操作

日本在住19年間の中国人、李纓(りいん)監督(『味』(2003)など)による靖国参拝問題についてのドキュメンタリー。

李纓監督は89年当時はこの問題を知らず、桜の名所たる靖国神社に花見にさえ行っていたという。だが政治・外交問題だと知ると10年間かけ取材・撮影、本作を完成させた。多くの日本人に知って欲しいというのが現在の希望であり、同時にこれは「日本人へのラブレター」だという。

どこから見ても、釣りとしか思えぬ話である。

とくにラブレターとは冗談がキツい。天皇陛下と"南京大虐殺"の写真を交互に映す印象操作のごとき編集を恋文と呼ぶとは、さすがの私も知らなかった。

おまけにその虐殺写真はとっくの昔にバレている有名な捏造品。その点をプレス試写後のミニ会見で指摘された監督は「写真はあくまでシンボルとして使用した」と回答した。中共の捏造体質のシンボル、という意味だと心から信じたい。

文化庁関連団体が助成金

そんなラブレターに、日本国民の血税を元にした750万円を献上したゆかいな人々がいる。文化庁の外郭団体、日本芸術文化振興会というところだ(ほかにも韓国・釜山(ぷさん)の団体から助成金を得たと、本作のプロデューサーは私に語った)。

"中国中央電視台(CCTV…中国政府のプロパガンダを流す事で知られる国営テレビ局)出身"の"中国人監督"が、"日中で対立中の政治テーマ「靖国参拝問題」の映画を撮る"という危険フラグ三本立てを前にしても、ここの審査委員は誰一人「政治宣伝性など無い」と信じていたらしい。

しかも企画書の段階ならいざ知らず、完成品の試写を見た後でも「その判断は誤りではなかった」と胸を張る。映像のプロが見ればひと目で「ああ、これは反靖国・反日的な意図をこめて作ったな」とわかる先ほどのような編集を山ほど見せられても、やっぱり「政治宣伝の意図は無い」という。(注…今回の助成制度には「政治宣伝の意図」がある作品には助成しないという決め事がある)

李纓監督が海外の名だたる映画祭(ベルリン国際映画祭、サンダンス国際映画祭、香港国際映画祭、等々……)で上映しまくり、世界中の人々にそうした思想を"アピール"し続ける事実を見ても、政治"宣伝"の意図は無いんだそうだ。日本語ってムズカシイ。

ちなみにこうしたメジャーなもの以外、たとえばドイツの大学生らが作り上げた小さな映画祭「ニッポン・コネクション」でもこの映画は上映されており、何も知らない現地の人々に偏った認識を広めている。そのマメさには脱帽する。

さて、ここで皆さんに想像してもらいたい。そんな偏った内容でも「この映画はニッポンの文化庁のおカネで作られています」とお墨付きがあったら、観客はどう思うだろう?

表現の自由の危機?

話がだいぶ脱線したので元に戻す。まず冒頭に書いた表現の自由問題について。ハッキリいうが、国会議員や右翼の街宣車が大騒ぎしたからといって、本気で「表現の自由の危機」を心配する映画関係者などまずいない。

たとえば映画監督だが、彼らの多くは気骨あるプロ(のはず)であり、その程度の抗議など逆にやる気が出るくらいのものだ。「このままでは表現者たちが萎縮する」などと、心温まる心配をしてくれた大新聞があるが、私はそれを読んでお茶を吹いた。そんなお嬢様のような気弱なドキュメンタリー作家がいたら見てみたい。

次に製作者・プロデューサー。彼らは萎縮するどころか、本音は騒ぎがデカくなって大喜びしているはずだ。面倒を嫌がる弱小映画館のひとつや二つぽしゃったところで余りある宣伝効果が得られたのだ。内心うひょひょ気分であること間違いない。また、そのくらいのしたたかさが無ければ到底つとまらぬ職業だ。

最後に宣伝会社だが、これは萎縮どころの騒ぎじゃない。優秀な宣伝マンなら一度ついた火にガソリンをどうぶっかけるか、緊急対策会議を開くだろう。

そしてたとえば、事なかれ主義の映画館主にこっそりと「あんな恐ろしい連中のやる事には当方としても責任が取れません、ここはとりあえず上映を自粛してはいかがですか」と耳打ちするくらいの事は、私でもやる。右翼の抗議だけでは話題性は薄いが、実際に映画館が上映中止したとなれば"表現の自由コンボ"となり数倍おいしい。

うまく上映自粛となったらしめたもの。公式サイトの上映情報を即座に閉鎖し、来月別地区での上映が確定していることを実は知っていながら、「現在のところ上映の目処は立っていない」と弱り顔で各マスコミにコメントしておけばよい。あとは勝手に燃え広がる。

このように、祭りの炎はどんどん大きくするのが、プロたるものの宿命。「表現の自由の危機」とは、そのためのたんなる旗印にすぎない。

公開規模はむしろ拡大

現実はどうなったか。映画『靖国 YASUKUNI』は、気がつけば予定を大幅に上回る上映予定館数となり、大量の報道による億単位の宣伝効果で大ヒット確実。

要するに「表現の自由」問題など、最初から無かったのだ。わかりやすい仕掛けに踊らされた各種人権団体の皆さんは、もし本気で表現の自由を守りたいなら李纓監督の母国で同じ事を叫んだらいい。その方がよほど世のためになるし、人民の支持と尊敬も得られよう。

本質はメディアvs.いち民間人の人権問題

さて、表現の自由問題が虚構だとしたら、冒頭に書いた「問題の本質」とはいったい何なのか。結論から言うと「李纓監督は取材対象に対する仁義を通すべき」ということだ。

まずこの映画は、靖国神社に日本刀を奉納する90歳の刀匠(日本刀職人)を取材し、構成の軸として多くの場面に登場させている。だがその刀匠は、映画の一部(註)を見て「出演依頼時と話が違う、自分の出演場面と名前を削除してから上映して欲しい」と意思表示した。(註…完成品は何度要求しても見せてもらえなかった)

無理もない。何しろ刀匠が汗を流して刀を鍛える場面の後に100人斬り訴訟の様子を同列に並べるといった、例の「編集による印象操作」がそこかしこに見られるのだ。一生をかけ技術を磨き続けた職人に対して尊敬の念を抱くどころか、自分の主義主張に利用しているのだから誰だって嫌になる。

そもそも彼の鍛える日本刀は芸術工芸品ともいうべきもので、これに虐殺の道具とのイメージを植えつけるのはあまりに不適当。こうした本物の日本刀は特攻隊がコックピットに積み込んで出撃した史実からもわかるとおり、実用上の武器というより武人の魂、象徴として扱われるべきものだ。

ちなみに"100人斬り競争"とは、どちらが先に100人の敵や捕虜を日本刀でぶった斬れるか、旧日本軍将校二人が競ったという逸話。当時の新聞に掲載された戦意高揚記事が根拠とされるが、あまりに荒唐無稽な内容なので遺族が名誉毀損の裁判を起こしたもの。

私はこの、100人斬り訴訟の関係者に話を聞く機会があったが、李纓監督は関係者以外立ち入り禁止の室内にいつの間にか立っていて、当たり前のようにカメラを回していたという。やがて周囲の人々が不審がり「あれは誰だ?」という事になって確かめたところ、無許可・無関係な中国人だとわかりつまみ出されたそうだ。

刀匠の言葉を真っ向否定する人々

ところで最近一部週刊誌等に「刀匠が出演シーンの削除を要求」した件を否定する報道が見られる。

だがよく読むと、プロが記事を書く際の基本中の基本、5W1Hがなぜかぼかされており、主語さえもあいまい。肝心の刀匠の言葉も、まるでお好みの部分を切り張りしたかのようだ。はて、日本を代表する一流媒体の記者ともあろう者が、今回に限ってケアレスミスを犯してしまったのだろうか。

それに比べて、というのも僭越だが、CSテレビ局チャンネル桜の私が出演する番組「桜プロジェクト」(平成20年04月07日号から平成20年04月14日号あたりを参照)では、刀匠、取材コーディネーター、刀匠の妻らの該当発言を、番組の構成上冗長になる事を承知の上であえて無編集でお伝えした。見ればわかるがご本人がカメラの前で、明確に削除の意思を語っている。どちらが信頼に足るソースかは、読者の皆さんの判断にお任せしたい。

だいたい誇り高い靖国刀匠が、何が悲しくてすすんで反靖国映画に出演したがるというのか。件の週刊誌もそれを読んで鬼の首を取ったかのように大喜びしている人たちも、論理の破綻に気づかないのが不思議でならない。

問われる監督としての倫理観

とにもかくにも、李纓監督がこのまま刀匠(およびその家族)の意思を無視して映画の公開を強行するとしたら、あまりに映画人としての仁義を欠いた蛮行といわざるをえない。映画メディアの持つ権力の横暴といわれても仕方が無い。

今、李纓監督と関係者がやろうとしていることは、「しょせん契約書のない口約束だし、相手はパンピーの老人。どうせ泣き寝入りするのがオチだろ。さっさと公開して儲けたもん勝ちさ」と言っているのと同じだ。

私は、親愛なる李纓監督が、そのような醜悪で唾棄すべき態度をとるはずがないと固く信じている。彼ほどの男なら、今からでも堂々と刀匠に完成品を見せた上で正式な許可を得るか、あるいは刀匠の言うとおりその出演場面を削って公開すると発表してくれるに違いない。間違っても、このまま強引に公開するなんて事はしないはずだ。そして、めでたく新ディレクターズカット版が出来上がった暁には、私としても喜んで点数を付け直させていただく。

ちなみにこの文章は、私前田有一から李纓監督へのラブレターである。



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