『母たちの村』70点(100点満点中)

女子割礼を真っ向から批判した社会派映画

アフリカやアラブ諸国、アジアの一部では、現在でも女子割礼が行われている。女子割礼とは、女性器切除(FGM)のこと。具体的には性感帯となる性器の一部を切除したり、ひどい場合には膣口を縫合したりする。不衛生な環境で行われる事も多く、手術が原因で亡くなる事も多い。運良く生き延びたとしても、その後一生、排泄、生理、そして性交時などに苦痛を伴い、分娩時の死亡率も(母子ともに)大きく高まる。

割礼などというと宗教儀式と思われがちだが(現地の人々もそう誤解している)、イスラム教にもキリスト教にもそんな決まりはなく、土着の慣習であることが明らかになっている。

『母たちの村』は、アフリカ映画を代表する83歳の映画作家、ウスマン・センベーヌが、この悪しき風習を痛烈に批判した劇映画だ。

映画は、4人の少女が割礼手術から逃げてくるショッキングな場面から始まる。彼女たちは、物語のヒロインであるコレ(ファトゥマタ・クリバリ)の所に保護を求めてくる。コレは、ある男の第二夫人で、これまで二人の娘を割礼手術の失敗で失っている。しかも、コレ自身も割礼の後遺症で自然分娩ができなかったため、帝王切開で生んだ末の娘に対して、かたくなに割礼を拒否したという強い女性だ。

そんなコレの事情を知っているから、4名の少女は彼女に保護を求めたわけだ。コレはそれを受け入れ、映画の原題にもなっているモーラーデを開始する。モーラーデとは割礼と同じくアフリカの古い風習で、「保護を求める人々に対して、全力で守る」こと。保護を求められた人間は、これを守らねば、罰があたると信じられている。周りの人々もモーラーデを行っている人物には、手を出してはならないとされる。割礼とモーラーデ、悪しき風習と良き風習の対立の構図になっているところが興味深い。

古い考えに凝り固まった男たちと割礼集団から、彼女はこのモーラーデの掟だけを盾に、危うい綱渡りで少女たちを守る。しかし、やがて男たちは、男尊女卑の慣習に保証された圧倒的な権力と、物理的な暴力により、彼女を追い詰めていく。やがてこの問題は、村中の男と女の対立へと進展していく。

『母たちの村』には、アフリカのある村の生活が、ディテール豊かに描かれている。それはこの監督が、積極的にそういうものを伝えようとしているためだろう。食事作りや建物の特徴、接客時の様子や結婚、出産、そしてセックスについて。扱いの小さな場面にも、ちゃんと意味があり、それは物語が進むにつれてしっかりと観客に伝わるように計算され、紡がれている。非常に優れた演出力であり、カンヌ映画祭で賞を取ったのもうなづける。

淡々と話が進むため、エキサイティングでもスリリングでもないが、終盤の、強くストレートなメッセージ性には、深い感動を与えられる。千年単位もの間、信じられていたことを覆すことが、どれほど困難なことか、容易に想像できるだけに、見終わるとつらく、悲しい気持ちに落ち込む。一日も早く、こうした暴力からすべての女性が救われることを願う。



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