『SAYURI』60点(100点満点中)
"日本"ではなく、和風のファンタジー映画
アーサー・ゴールデンの原作小説『さゆり』は、作者が日本の花柳界を10年以上の歳月をかけて取材、考証して書いた作品だ。主人公の芸者さゆりの一生を、詳細なタッチでドラマチックに描いている。
これを、「読んだ瞬間、映画化を決意した」スティーヴン・スピルバーグが製作、ロブ・マーシャル(『シカゴ』)が監督して映画化したものが『SAYURI』だ。
主人公の少女、千代(大後寿々花)は、姉とともに9歳で置屋(芸者たちが住み込みで所属する、プロダクションみたいなものだ)に売られる。そこで、人気ナンバー1芸者ながら意地悪な初桃(コン・リー)のひどいイジメに耐える千代は、ある日、街中で"会長"と呼ばれる紳士(渡辺謙)と出会う。その優しさに一目ぼれした千代は、再び会長に会いたい一心で、つらい芸者修行に挑むのだった。
『SAYURI』は、本作と同じく渡辺謙が出演した『ラスト・サムライ』に続き、ハリウッドが一流スタッフで日本を描いた大作ドラマということで話題の作品だ。
ただし、出演した役所広司が「日本人が見ればおかしいと思うかもしれないが」と語っているように、『ラスト・サムライ』ほど時代考証にこだわった作品ではない。いや、むしろ、まったくといっていいほど、こだわってはいない。
だから、衣装もセットもかなり妙だし、劇中の日本舞踊など監督の前作『シカゴ』のダンスみたいだ。そもそも、登場人物は全員英語を話しているし(しかも、中途半端に日本語が混じっていて奇妙だ)、ヒロインのさゆり役はチャン・ツィイーが演じている。
つまり、映画『SAYURI』は、決して日本のゲイシャ文化を描いたものではなく、「和風味付けのファンタジー世界を舞台にした、恋愛ドラマ」なのである。だからこれを日本人が見ると、日本を描いた映画を見ているはずなのに、お客さん気分を味わうことになる。
こういうコンセプトの映画だから、我々日本人としては、「あれはヘンじゃないか」「あんなモノはありえない」といった類の不満は、抱いてはいけないのである。その点を気にし出したら、恐らく本作を楽しむことはできない。これは、外国人の考える「日本および日本女性の美しさ」を、彼らなりのやり方で(恐らくアメリカ市場向けに)勝手に描いた作品なのだ。
とはいうものの、原作がしっかりと考証を重ねた小説であることを思うと、映画版のやり方に対して釈然としないのも事実。中でも私が最後まで違和感を感じたのは、この作品の主要な女性キャラクターを、すべて非日本人が演じていることだ。
さゆり役のチャン・ツィイーをはじめ、その先輩芸者役のミシェル・ヨー、コン・リーなど、メインかつ、きれいどころの芸者役は中国などアジア系の女優が独占。まさに、ヒロイン総取りである。日本人は、唯一工藤夕貴が、引き立て役のおカボを演じているだけだ。いくら「和風ファンタジー」だと思ってはいても、物語の核となる女性キャラクターすべてが非日本人というのは、日本の女優はダメだと言われているようで、あまりいい気分はしない。
内容は、さゆりの一生を、本人が回想する構成だが、正直、ストーリーは退屈はしないものの、あまり心に響いてこない。軸となる会長との恋愛物語もしかり、だ。芸者文化についてのディテールも、そもそも衣装やら言葉やら役者やらがニセモノなので、見所とは言えないだろう。
音楽は、親日家のジョン・ウィリアムズ御大(「スター・ウォーズ」ほか)が担当しているが、使い方はあまり良いとはいえない。しんみりとしたい場面で、祭囃子のような派手目の曲が鳴ったりなど、ちぐはぐな印象だ。
ただ、お金がかかっているだけあって、絵的な美しさというものはある。インチキ日本とはいえ、ツィイーが踊る場面などじつに美しい。そのあたりは、美点といえるのではあるまいか。
ところで、噂では、アカデミー賞をいくつか受賞するかもなんて話だが、いやはや、そんな事になったら悪い冗談である。むしろ、奇妙なバカ映画のひとつとして、人々に記憶されるくらいの作品だと私は思うのだが。とはいえ、西洋人が日本文化をどう見ているか、それを確かめにいくという意味では、必見といえるかもしれない。