『阿修羅城の瞳』30点(100点満点中)
舞台演劇なら許せても……
松竹と劇団☆新感線が共同で作り、チケットがあっという間に完売するほどの人気を博した舞台劇の映画化。主演は歌舞伎役者の市川染五郎、相手役は宮沢りえ。
江戸の町には人の姿をした鬼がはびこっていた。幕府側は鬼を見分けられる能力をもった精鋭軍団「鬼御門(おにみかど)」を組織し、鬼を見つけ次第成敗していた。主人公はかつてそこで最高の腕を持っていた剣士で、今はしがない舞台役者をしている男(市川)。ある日彼は、つばき(宮沢)という女と出会い、恋に落ちるが……。
宮沢りえ演じるつばきという女にはある秘密がある。実は彼女は最強最悪の鬼の王“阿修羅”なのだが、自分自身もそれに気づいていない。阿修羅が目覚めるには彼女が恋をする必要があり、しかも恋をした相手が強い男であればあるほど、阿修羅のパワーも強大になるのだ。
『阿修羅城の瞳』は、いかにも舞台劇から映画化したといった印象の作品だ。舞台版でも同じ役を演じた市川染五郎をはじめとする役者陣のオーバーアクトや、舞台でしか通用しそうにないコテコテのギャグ、リアリティにこだわらないセット、ストーリーなどにその特徴を見ることができる。こうしたケースにありがちな「舞台では見えなかったもの(観客が想像力で補完していたもの)が見えたことで、かえって興ざめした」をそのまま地でいくような映画だ。
3時間半の舞台を約2時間で映画化しているが、それでもダラダラしている。『阿修羅城の瞳』は時代劇といっても現実味のないファンタジー作品だが、それを成立させるだけの説得力に乏しい。恋をすると鬼になるというメインアイデアも、映画では何がしかの理由付けがないと受け入れがたい。
演劇では許せてもスクリーンでは許せない要素というのは案外多い。演劇には観客の脳内で補完される割合が(筋書きなど見た目以外の点でも)大きく、とくにこうしたファンタジーでは、ストーリーや設定のリアリティなどほとんど求められない。しかし、それは映画では通じない話だ。足を切られたはずの男が次のシークエンスでぴょんぴょん跳ね回っていたのでは、観客は気になって画面に没頭できないものなのだ。演劇の映画化を行う場合、こうした細かい点にまで相当気を配る必要がある。
クライマックスの二人の戦いは、互いの愛を確認しあうかのような、ラブシーンと言い換えても良いものであり、流麗な立ち回りはエロティックにすら感じられる。この部分だけ見てもわかるとおり、この話はある程度の大人をターゲットにしている。だからこそ余計に、違和感のない映像演出にこだわってほしかった。
さて、宮沢りえ演じるつばきは、恋をするほど鬼に近づいていくという設定だ。あまりにも理不尽な悲劇、悲恋物語なわけだが、残念ながら彼女の悲しみや、身を引き裂かれる思いはあまり伝わってこない。物語上、もっとも重要と思われるこの部分が上手く演出されなかったのは致命的であった。
『阿修羅城の瞳』は、舞台劇を気に入ったので映画にも出かけるという方が多いであろうが、そうした方はともかく、映画から初めて見るという方にはあまりすすめない。